「石の心」

2018年8月26日(聖霊降臨後第14主日)

マルコによる福音書6章45節~52節

 

「なぜなら、パンたちについて理解せず、彼らの心が石のように固くなっていたから」とマルコは最後に報告している。理解すると訳される言葉はシュニエーミ、「共に送る」が原意の言葉であるが、それは総合することである。物事を断片的に判断するのではなく、総合的に判断することが理解することである。そのためには心が柔らかくなくてはならない。新共同訳は「鈍い」と訳しているが、むしろ何も受け付けない「石のような固さ」を表す言葉である。弟子たちの心は石のように固く、何も受け付けないがゆえに、総合的に判断することができず、起こった出来事のみ、経験した出来事のみを見て、恐れや不安に陥るということである。そのような心で生きているならば、神の世界を理解することはできない。いや、受け入れることはできない。我々人間が神の世界を理解するなどおこがましい。神の世界の出来事に対しては、「アーメン」と受け入れるだけなのだ。そこには判断がないのだが、何も考えないということではない。受け入れるということは、ただ神が生じさせ給うた出来事としてそのままに受け入れることであり、後になってそれらを総合するのである。その場合でも、理解するというよりもやはりただ受け入れるのである。我々が理解したり、判断したりする場合、個々の人間が持っている価値基準に従って、選別されるものである。それでは、神の出来事を我々が選別することになる。神の出来事はただありのままに受け入れるだけなのだ。我々人間の価値判断を捨てて、すべては神の意志に従ってなっていると総合的に受け入れるのである。そのときには、恐れも不安もなく、ただ神の平和が我々を包むであろう。イエスが「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな」と弟子たちに言うのはそのためである。彼らの石の心を柔らかくするために、イエスは海の上を歩いて近づいた。しかし、彼らの心が石の心であるがゆえに、近づいてきて、通り過ぎることを意志したと記されているのだ。

イエスが通り過ぎるのはどうしてなのか。彼らの心が石のように固いからである。彼らが漕ぎ悩んでいたのも石の心だからである。「漕ぎ悩む」と訳されている言葉は、「推し進めることにおいて、苦痛によって試されていた」という意味である。弟子たちは、逆風に対して、無理矢理にでも推し進めようとして、苦痛を感じていた。それは試しであり、誘惑である。我々は自分の思いを推し進めることに縛られて、逆風を受け入れることを忘れるのである。ヨハネによる福音書において、イエスが言うように「風は思いのままに吹く」のだ。風を自分の思いに従わせようとしても無駄なのだ。風は吹くのだから、吹くように吹かせていれば良い。それを無理に推し進めようとするがゆえに、苦痛によって試されることになる。その苦痛は自分で招いているのだ。

我々は愚かにもそのように生きている者である。では、成り行きに任せれば良いのかと言えばそうではない。受け入れるということは、あきらめではない。あきらめに似ているが、積極的に主体的に従うことが受け入れるということである。あきらめに喜びはない。受け入れることには喜びがある。神に従うときにも喜んで従うのだ。神の世界に従うことにも喜びがなければならない。そうでない場合は、あきらめや傲慢という両極に振れることになる。喜んで従うときには、振れることなく、静かに従っている。これが信仰なのである。そこには気負いもない。アーメンと受け入れるだけ。これが信仰における受け入れである。いや、信仰とは従順のことなのだから、信仰を与えられた存在は従順に神に従う。喜んで従うのだ。

弟子たちが、漕ぎ悩んでいたのは、従順がないからである。信仰がないからである。石の心だからである。石の心は頑なである。旧約の世界ではこのような状態を「うなじが強い」と言う。うなじが固くて頭を垂れることができないということである。神の前で頭を垂れることができない人間を「うなじが強い」と言う。それは自分の価値判断を手放すことができない人間の姿である。そのような場合には、我々は何も受け付けない。自分の思いに従ったものであれば受け入れる。相手も自分の思いに従わせる。世界が自分の思いに従っていればうまく行くと考える。うまく行かないのは、自分の思いに従ってくれないからだと考える。こうして、人間は傲慢になり、神の前にひれ伏す信仰に入れられることはない。弟子たちも無理矢理にでも推し進めようとして、この状態に陥っていたのだ。それゆえに、イエスはそばを通り過ぎる意志を示された。その姿を見て、弟子たちは「幽霊だ」と思って、叫ぶ。自分の価値判断に合致しない出来事はすべて不思議な出来事であり、恐ろしく、不吉な出来事だと思ってしまうのだ。どこの世界にあっても同じである。弟子たちは、目の前の海の上を歩く存在を見て、不吉な幽霊だと判断する。この判断は総合ではない。刹那的思考である。それゆえにイエスは彼らに声をかけ、励ますのだ。「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな」と。

ここでイエスが言う「勇気を出せ」という言葉は、励ましの言葉であるが、勇気を出してありのままに受け入れよとおっしゃっているのだ。受け入れ難いものをあなたがたの愚かで狭い価値観によって判断するなということである。心を柔らかくすれば、受け入れることができるのだから、勇気を出して、力を捨てて、わたしがあるということを受け入れよとイエスは弟子たちに言うのだ。「力を捨てよ。知れ。わたしは神」と詩編46編に歌われている如く、敵対するのではなく、神を信頼してすべてを受け入れることが「勇気を出す」ことなのである。そのとき、我々は神の世界にありのままに生かされ、平安を生きることができるのだ。我々の不安は、我々の石の心が造り出した幻影ファンタスマである。ファンタスマは幽霊と訳されるが、幻影のことであり、我々の石の心が造り出す不安の現れなのである。ありのままに受け入れるならば、不安もなく、恐れもなく、ただ神の出来事に包まれるのだ。

弟子たちが、石の心であるのは、パンたちについて総合できなかったからであると言われているが、これも弟子たちの石の心が断片的にしか物事を見ないからである。我々の石の心はさまざまなところで我々の目を曇らせる。我々の思考を愚かにする。我々の感覚を過ちに陥らせる。弟子たちを通り過ぎる意志をもったイエスは、彼らの石の心を通り過ぎようとしたのである。石の心では海の上では沈んでしまう。イエスの心は柔らかくすべてを受け入れる。すべてを受け入れる心は信仰における神の賜物である。

神は、すべてを受け入れるようにと、ありのままに従うようにと信仰を与えてくださる。この信仰を受け入れることも柔らかな心が受け入れる。我々は石の心を柔らかくされて受け入れる。弟子たちが、イエスを舟に受け入れると風が静かになったのはそのためである。弟子たちの石の心が溶けて、柔らかくなったがゆえに、風も静まる。世界は神の凪に包まれる。これが信仰における凪である。そのとき、我々は「わたしはある」とおっしゃるイエスがあらしめることに従うのだ。弟子たちもイエスに従って、すべてを受け入れたがゆえに、風が静まる経験をした。それだけではなく、パンたちについて総合することもこの受け入れから生じるのである。パンたちを与え給う神は、我々の求める先にすべてを備えてい給う。この神の世界に信頼しているならば、すべては神の意志に従ってなっていくことを我々は見るであろう。この総合的世界が我々の前に開かれるとき、何も恐れることはない。自分の思いを推し進めることなく、神に従い、神があらしめ給うように生きる。神が導き給うところに導かれる。

我々は勇気を出そう。すべてをありのままに受け入れて良いのだ。世界は受け入れるべきものなのだ。従うべき神の世界なのだ。失敗も成功もなく、ただ神の意志がなっていくと信頼する心は、石の心ではない。あなたの不安はあなたの判断の不安だけなのだ。幻影でしかない。わたしはあるとおっしゃるイエスは確かにいまし給う。イエスに従い、喜びをもって生きて行こう。あなたを救い給う主はあなたのそばに来てくださる。

祈ります。

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