「人間汚染」

2018年9月2日(聖霊降臨後第15主日)

マルコによる福音書7章1節~15節

 

「神の掟を手放して、あなたがたは支配している、人間たちの引き渡したものを」とイエスは言う。彼らが自らを水に沈める洗礼だけならばまだしも、杯や器、さらには寝床までも水に沈めて洗礼しているのだ。これほどおかしな慣習はない。これは人間たちの引き渡したもの、つまり言い伝えであり慣習である。これほどにおかしなことを引き渡し続けていてもおかしいとは思わない。我々も同じかも知れない。当事者はしごく真面目に寝床の洗礼を行っている。端から見れば、何を愚かなことをしているのだろうと思えることを真剣に行っている。これが人間たちの引き渡したもの、人間の考え出したものである。この人間的なものに汚染されているのだとイエスは語り給う。我々の世界には人間汚染が蔓延しているのだ。

しかし、我々は人間汚染をおかしいとは思わず、それをさらに広げようとする。人間汚染が正しいと思っている。人間に汚染されるように、世界や人々を支配しているのがこの世界なのである。その最たる者がここでイエスが批判するファリサイ派と律法学者たちである。彼らは、自分たちが神の民を支配するために、人間汚染を広げているのである。

彼らは当初、神の掟である律法を人間が守るために何をすれば良いのか、何をしてはならないのかを考え、人々が守りやすいように、彼らが考え出したことを教えていた。時代を経るに連れて、彼らが作りだしたものが一人歩きを始め、それを守ることが中心となり、神の律法は分かり難いと捨てられる結果となった。イエスの当時の人々は、神の律法よりも言い伝えである引き渡したものを守っていた。それが何を意味するかも理解することなく、ただ慣習的に行っていた器の洗礼や寝床の洗礼。さらに、神の律法を守らなくても良いような言い伝えさえ生まれてしまった。こうして、人々は神の掟を捨て去って、人間汚染は広がっていったのである。

我々人間は汚染を広げる存在であるということを弁えている必要がある。我々のうちから出てくるものは悪でしかないということを弁えている必要がある。ことが起こり、自分の思いで対処しようとして、さらに悪化させることがある。また、自分の思いで支配することを求めて、人を縛り付けることも起こる。ファリサイ派や律法学者たちは人を支配し、縛り付けていた。しかも、人間的な思いで考え出した言い伝えによって、縛り付けていた。これが神の律法を手放させることになるとは思ってもいなかったであろう。しかし、結果的にそうなった。それは当然なのである。

神の律法は人間の生きる方向を語っていた。間違った方向性を認識させるために、神は律法を与え給うた。愚かな人間は日常において何をすれば良いのか、何をしなければ良いのかを知りたいと思った。自分で考えることなく、誰かに教えて欲しいと思った。それゆえに、ファリサイ人や律法学者たちが考え出した言い伝えを守りさえすれば、神の律法を生きることができると思い込んだ。自分の事柄として生きることのできない人間には、マニュアルが必要だとファリサイ人や律法学者たちも考えた。一人ひとりが神の律法に耳を傾け、神の前にひれ伏し、自己に絶望することが律法が与えられた意味であった。ところが、マニュアルをもらった人間は、神の前にひれ伏すことなく、自己に絶望することなく、自分の力でできることをしていれば、救われると思い込んだ。こうして、神の律法は正しく受け取られることなく、一人ひとりは神に純粋に向き合うこともなく、言い伝えという人間的掟に縛られることとなった。こうして、人間汚染は広がっていったのである。

このような事態が愚かな人間の世界であるということさえ分からない人間。自らのうちには悪しか働いていないと認識していない人間。自らのうちに罪を住まわせておきながら、良い人間になれると思っている人間。自分自身の本質を知らない人間。そのような人間は、外側を浄化しても内側が人間に汚染されているのだから、何も変わらない。変わったと思っている人間こそ、変わっていないのだ。彼らは自分が良くなることができると思い続けているのだから。

人間は自ら良くなることはない。自らの力では神に従うことはない。神に従う者は、信仰の従順を生きているのだから、自らの力で生きているのではない。神の力によって生きている。神の力によって生きるということは、自然的人間の姿である。本来、人間は自分で生きることはできない。神が生かし給うがゆえに生きる。神の生かし給う力なくしては我々は生きて行くことはできないのだ。イエスは他の福音書でこうおっしゃっている。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」(マタイ5:36)と。このような小さなことさえできないのに、自分のいのちを自分が何とかできると思い上がるのが人間なのである。それは人間汚染によって広がっていった罪なのである。

神の力によって生きると言うと、見えもしない神を信じているのかと人は言う。それは思い込みだと言う人もいる。信じるということは、我々が確認して信じるのではない。思い込みでもない。賭けのようであるが賭けではない。ただ信頼するということである。人がそう言うから信頼するのではない。神の言葉に従って信頼するのである。神の言葉である聖書が語るとおりに信頼するのだ。もちろん、聖書も人間が書いたものではないか、人間が考え出したものではないかと批判する人もいる。聖書を読んだことのない人はそうである。自分のこととして読んだことのない人は、客観的事実が書かれているのではないから信じられないと言うのだ。

神の言葉は客観的事実ではない。誰もが確認できる事実ではない。誰もが見ることができる客観的事実は聖書には記されていない。聖書が語っているのは、神が語り給うた言葉である。神の語りかけを聞いた人が記した言葉である。それゆえに、自分のこととして聞く耳が開かれなければ、聞くことも信じることもできないのである。そこに選びがある。選ばれていると思い込む人には選びはないという選びである。自らに絶望する人に選びがあるという選びである。神を信じるということは、人間に絶望しなければ可能とはならないのだ。人間に汚染されたままでは無理なのだ。人間汚染を正しいと思い込んでいる者には無理なのだ。人間汚染は、信仰の対極にある不信仰な在り方である。人間はどこまでも汚染を広げる存在なのである。不信仰を広げる存在なのである。この在り方を離れるには、自己に絶望するしかない。それさえも、絶望させ給う神の御業に与らねばならない。絶望を回避する力を持っている間は絶望さえできないのが人間なのである。まして、自ら絶望する者などいない。神の出来事が向こうから迫ってきて、絶望するところへと導かれるのだ。さらに、神は絶望を越えさせるお方である。絶望の向こうへと導き給うお方である。それがキリストの十字架が語っていることである。

我々人間は、人間自身から出てくるもので汚染されている。わたし自身から出てくるものでわたしは汚染されている。汚染されているわたしは、汚染を広げる存在である。人間汚染を広げて、世界を罪の支配に縛り付けるように働くのが人間であるわたしなのだ。ここから解放されるためには、わたしのうちに何も善きものがないということを知らなければならない。我々は悪でしかない。汚染を広げる存在でしかない。イエスが言うとおり、わたしのうちから、わたしの心から出てくるもので世界は汚されている。これを浄めるために、キリストが負ってくださった十字架が立っているのだ。

我々の罪の汚れを取り除き、罪が働かなくするために、キリストが負い給うた十字架。この十字架を前にして、弟子たちに語り給うたイエスは、ご自身の体と血を彼らに与え給うた。今、我々はキリストの言葉に従って、キリストの体と血をいただく。神の言葉に従って、キリストの体と血を受け取る。神があなたを浄め給う御業を信じて、いただこう。あなたは神のもの。神によって造られた存在。神によって新たにされる存在。あなたは神のものなのだ。

祈ります。

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