「境界を越えて」

2018年9月9日(聖霊降臨後第16主日)

マルコによる福音書7章24節~30節

 

「彼女の家へと立ち去って、彼女は見出した、こどもを」と記されている。この「こども」という言葉は、パイスというギリシア語で、「僕」をも意味する。しかし、イエスが使っている「こども」という言葉はテクノンであり、親子関係や血縁関係におけるこどもを意味する言葉である。一方のパイスは「若者」、「少年少女」、「奴隷」、「召使い」を意味する言葉である。このパイスは、イザヤ書41章から43章に出てくる「神の僕」における「奴隷」、「召使い」を意味するヘブライ語エベドのギリシア語訳に用いられ、後に使徒言行録4章27節などでは神の僕を意味する言葉「聖なる僕イエス」にも用いられた。パイスは血縁によらない「若者」や「僕」、そして「こども」をも意味する。イエスが血縁関係における「こども」テクノンを使っているのに、女は僕を意味する「こども」パイスに変えているのである。当然血縁関係を越えた「こども」が意味されている。女は、イエスの言葉におけるテクノンが指す血縁関係の境界を越えるパイスを用いて、自らと娘を神のこども、神の僕として位置づけたと言える。女は犬と言われたのだから、血縁と関わりない犬さえも食卓の下にいるとすれば、血縁を越えた自分たちも神のパイスとして欠片くらいはいただけると述べたのである。女はイエスの言葉をパイスに転換することによって、自らを神の家のうちに置いたと言えるであろう。

イエスは女に境界を越えさせるために、犬やこどもという表象を使ったのかも知れない。イエスの言葉には、女のイメージを喚起する力があった。イスラエルの民の家をイメージさせることによって、そこに犬や召使いなどが位置づけられるようにした。イエスはイメージを与え、女は素直に受け取り、イメージに従った。イエスの言葉を批判的に理解するのではなく、イエスの言葉が描き出す世界を受け取った。それゆえに、女のうちでイエスの与えたイメージが豊かな展開を見せた。テクノンをパイスに転換するだけで、女は自らがイエスが描いた家にいることを見出した。最後には、彼女の娘がパイスとして見出された、彼女の家で。彼女のこどもが神の恵みの欠片で満たされた。彼女の家はイエスが描き出した家となったのである。

これは人種と国という境界を越えることであった。イエスがティルスの地方に行ったのは、イスラエルとの境界を越えて出て行ったことであった。そこで、ギリシア人の女がイエスの許に来たる。イスラエルの国ではない場所、ユダヤ人でもない女。ティルスに住むギリシア人の女。彼女は血縁的にも領域的にもイエスとは関係の無い存在であることを認める。しかし、犬は、国境を越え、人種も越える。もちろん、奴隷、僕、召使いも犬と同じく国境も人種も越える。イスラエルが神の僕であるのだから、人種も国境も越えて犬のように神の僕、召使いとして女も生きることができるはずだと言うのである。この女のイメージの素晴らしさに、イエスは感心し、「この言葉のゆえに行きなさい。出てしまっている、あなたの娘から、悪霊は」と言うのだ。

イエスは、女のイメージを肯定し、与えられたその言葉に基づいて行きなさいと告げる。その言葉に基づいて「悪霊は出てしまっている」のだからとイエスは言う。女が与えられたイメージを言葉として口にした瞬間に「出てしまっている」のだとイエスは言う。もはや、女には境界はない。彼女が境界を越えたのは、彼女に与えられたイメージを口にしたときである。口にすることによって、その言葉は彼女自身を再形成し、彼女と娘とは神の僕として生きるようになった。イエスが神の僕として死という境界を越えたように、彼らも人間が定めた境界を越えて生きる者とされた。境界を越えて生きる者は、何ものにも縛られることなく、自由に生きることが可能となる。ギリシア人であろうとも神の僕として生きることができる。

イエスが認めた女の言葉は神が与えた言葉。悪霊に苦しめられていた娘が救われたのは、女に与えられたイメージの世界に娘も入れられたからである。悪霊の支配する世界から、神の支配する神の世界へと境界を越えたからである。神の国に境界はない。神の国に人種もない。神の国には言葉の壁もない。言葉の根源である神のイメージが神の国の共通言語だからである。ギリシア人であろうとユダヤ人であろうと、神の僕として生きることができる。イエスはその世界を広げるために、境界を越えてティルスの地方に行ったのだろうか。神が指し示すイメージに従って、イエスは境界を越えた。越えたところで、言語の境界も人種の境界も国の境界も越えて、出会った女に境界を越えさせた。

我々もまたキリスト者として境界を越えさせられた者である。この境界を再設定してはならない。境界は悪霊が支配する世界。悪霊は我々を境界のうちに留まらせ、神の世界に入ることがないようにしてしまう。女は、子を思う思いによって、境界を越えた。こどもたちにも境界はない。境界を作るのは大人である。大人の世界は悪霊に支配された世界。大人は自分たちだけの世界を作ろうとする。人種、言語、地位、財産などによって、狭い世界を構築し、その中に他者を縛り付け、あるいは排除し、さらに世界を狭くしていくのが大人である。こどもたちは自由に行き来できるのに、動物たちも自由なのに、大人の世界を押しつける。不自由な世界を押しつける。狭量なイメージで縛り付けるのが大人であり、罪深い人間の狭い世界を造りだしてしまう。こうして、世界は不寛容で、窮屈になっていく。

神の世界は広く、自由である。如何なるものも神の被造物として生きる権利を持っている。どのような地位にあろうとも神の被造物。財産があろうとなかろうと神のものを与えられている。神が与え給うたいのちを生きている。神が造り給うたその人はその人自身として神の価値を与えられた存在。人間が定めた価値に貶められることのない神の価値を、その人は付与されている。ギリシア人の女は神の価値の中へと境界を越えた。イエスの言葉に触発され、神の言葉のイメージの広がりの中に入れられた。女に越えられない境界はない。神の僕に越えられない境界はない。如何なる境界も人間が定め、狭め、他者を受け入れないために定められている。神は境界など設定していない。唯一設定した神の境界は、天と地、陸と海。この境界の中に置かれて、我々は人間として生きるべく造られた。陸に生きる人間、地に住む人間として、神の僕として生きるべく造られた。これを越えようとしたアダムとエヴァの堕罪ゆえに、我々の世界は自己拡張的世界、狭量で排他的世界となってしまった。動物であれば、自由に行き来することができる世界を不自由な世界にしてしまった。神の世界を自己の所有にしようとしたがゆえに、世界は人間の狭さに縛られることになった。悪霊の支配は世界を狭くし、共に生きることができないようにしてしまう。女と娘は、悪霊の支配世界から解放された。イエスの言葉、神の言葉が広げるイメージが彼女たちを解放した。イエスの言葉をありのままに受け取ったがゆえに、女の世界は広がっていった。ありのままに受け取るということは、神の語り給うイメージに自らを開くことである。自らを開き、神のイメージを受け取ることである。彼女のうちに入り来たった神の言葉が彼女の世界を広げてくださった。彼女と娘との世界を広げてくださった。

我々キリスト者は、神の言葉に生きる。神の言葉の世界に生きる。神の言葉が指し示す世界の中に生きる。あなたを縛り付けている悪霊の支配から解き放たれて、自由なる世界に出て行こう。境界を越えて、境界のない世界に出て行こう。あなたを縛るものは何もない。死をも越えて、あなたは生きることができる。十字架のイエスのように、神の力によって生きることができる。悪霊の支配は死の支配。人間を縛り付ける罪の支配。神の国はいのちの世界。神の支配はいのちの支配。罪に縛られていたあなたは神の世界へと解き放たれた。神が造り給うたあなたが生かされる世界は神の世界である。この女のように神の僕として生きて行こう、境界を越えて、十字架のイエスを見上げながら。

祈ります。

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