「開放と解放」

2018年9月16日(聖霊降臨後第17主日)

マルコによる福音書7章31節~37節

 

「そして、彼の聞く能力が開かれた。そしてまた、彼の舌の鎖が解かれた」と記されている。イエスが「エッファタ」「開け」とおっしゃったとおりになった。イエスの言葉に従って、この人の聞く能力が開かれ、舌の鎖が解かれた。この人は聞くことができないがゆえに、舌も鎖に縛られていたのであろうか。聞くということによって、言語的世界が開かれる。しかし、人間は創造の初めから言語的世界の中に造られている。神は言語的に世界を創造された。意志を持って創造された。神の言語は創造する言語。創世記の始めにある如く、神の言語のとおりに世界はなった。世界は神の言葉を聞いて従ったのだ。ここでも、イエスの言葉のとおりになった。世界は神の言葉を聞くことにおいて成立している。

聞かないということと、聞こえないということとは違う。聞こえないとしても、聞くことはできるであろう。しかし、聞こえていても聞かない人は多い。聞くということは意志である。聞こうとする意志があるならば聞くのである。聞こうとする意志がなければ聞こえていても聞かない。この人は、多くの人から「どうせ聞こえないのだ」と思われ、聞こうとする意志を認められなかったのであろう。それゆえに、イエスは群衆から彼を連れ出して、独り向き合って、彼に言った。「開かれよ」「エッファタ」と。イエスの聞かせようとする意志が彼には見えた。イエスの意志が彼には聞こえた。自分と独り向き合ってくださるイエスによって、彼はこの方の言葉を聞きたいという意志を起こされた。彼は向き合ってくださるイエスによって、自分を認められたことを知った。独りでは生きていけないと思われていた彼。独りでは聞くことができないと思われていた彼。イエスは、その彼を連れ出した。「独りで聞きなさい」と連れ出した。このイエスの連れ出した行為によって、彼はイエスの意志を聞いた。このお方は、わたしが聞こえないことをご存知でありながら、それでもわたしに顔を向けて、語りかけくださる。わたしが聞きたいと思う意志を認めてくださる。「このお方の言葉を聞きたい」とこの人は聞く能力を開かれた。

社会は彼を認めているように見えて、彼を決めつけていただけ。「こいつは聞こえないのだ。こいつには言っても無駄だ」と。そして、彼の腕をつかみ、引っ張り回し、彼の意志など無視して、ここまで連れてきた。彼は社会の先入観や既成概念によって縛られていた。彼の舌も鎖に縛られていた。言うことができないように縛られていた。この人をイエスはたった独り連れ出して、群衆から引き離し、向き合ってくださった。「エッファタ」。あなたが閉じてしまっているものが開かれよ。あなたを縛り付けているものから自由になれ。あなたは自由なのだ。あなたはあなた自身なのだ。社会が決めつけるあなたではない。あなたが意志を持っているとおりにあなたの意志を語り、他者の意志を聞いて良いのだ。何ものにも縛られることなく、生きて良いのだ。イエスの「エッファタ」に込められたイエスの意志をこの人は聞いた。

イエスは「エッファタ」の他には何も語らなかった。それだけがイエスの意志だったから。この人にはこのイエスの意志だけで良かった。イエスの意志によって、彼は自分を開き、解き放たれた。自分の扉を開放してすべてを受け入れること、自分を縛り付けていた鎖から解放されて自由であることを生きることが可能となった。彼自身の意志が起こされただけで、閉じていた心を開くことができた。彼自身の意志が活動状態にされただけで、彼は自由になった。イエスが彼を連れ出して、向き合ってくださったからである。

連れ出すと訳される言葉はギリシア語でアポランバノー。アポ「どこどこから」という前置詞とランバノー「取る」という動詞からできている。それゆえに「どこかから連れ出す」という意味になる。しかし、もともとは「自分のものを取り返す」という意味である。イエスはこの人をご自分のものとして取り返したのである、決めつける社会から。そして、ご自分のものとして彼に向き合ってくださった。イエスはご自分のものとして取り返したこの人に語りかける。「エッファタ」。あなたは開かれるのだ。あなたは自由なのだ。あなたはあなたとして生きるのだ。あなたは自分を開いて良いのだ。ありのままで良いのだ。エッファタ。あなたを生きて良いのだ。イエスはこの人に向かって語ったたった一つの言葉によって、この人のすべてを開き、解き放った。聞くことを開き、語ることを解放した。自由に生きるようにと解放した。彼は、これから語る前に、聞くであろう。聞いて、語るであろう。

我々は他者の言葉を聞かない。自分は語るのに、他者の語りを聞かない。誰でも聞いて欲しいのだ。誰でも自分の言葉で自分の思いを伝えたいのだ。誰でも自分自身を認めて欲しいのだ。聞くことは受け入れること。聞くことは認めること。聞くことは意志を持って向き合うこと。向き合う意志がなければ自分を閉ざしてしまう。聞くことがなければ、語ることもない。黙って、自分の世界に沈んでいるであろう。神は、そのように我々を造ったのではなかった。神の似姿として造り給うた。神の似姿であるならば、神のように言葉を交わす。聞き、語る。相手を受け入れて、自分のうちに相手から起こされた思いを伝える。自分を開いて、相手を受け入れる。認め合いながら、語り合う。神の似姿は聞き合い、語り合う関係の中に生じる。アダムとエヴァは、神の言葉を聞かなかった。神の言葉に込められた神の意志を、彼らに対する神の思いを聞かなかった。いや、蛇によって、誤り導かれた。そして、罪を犯したのだ。神の思いを聞く前に、自分の思いを優先した。これが罪の姿である。

相手の言葉を聞き、相手の言葉に込められた思いを受け取り、相手の言葉に誠実に応える。それが開放された耳、解放された舌。それは身体的部位というよりも、わたしという存在の言葉と他者という存在の言葉が交わる機能。この機能において、我々は神の似姿として生きるのだ。イエスのものとして取り返されたわたしを生きる。イエスはどこから取り返してくださったのか。サタンからである。悪魔の支配から取り返してくださったのだ。我々は、縛り付けられていたところからイエスのもの、神のものとして取り返された存在である。イエスが語り給う言葉によって、取り返された存在である。自分自身の本来性へと取り返された存在である。

我々は誰をも縛り付けてはならない。決めつけてもならない。ありのままのその人を受け入れ、神のものである存在として認めなければならない。そのとき、この地上にあって、我々は神の国を生きるであろう。神の国の生き方は、互いに愛し合う生き方。互いに仕え合う生き方。互いに聞き合う生き方。互いに語り合う生き方。そうして、世界は新しく開かれていく。異なるものを排除し、縛り付けるのではなく、互いに解放された自由なる者として生きて行く。キリストはあの十字架の上で、その世界を開いてくださった。我々の縛り付ける罪を、決めつける罪を、働かなくしてくださった。キリストにある存在は、自由なのだ。悪に対して自由なのではない。善に対して自由なのだ。悪に手を伸ばしたいわたしが、自由に善を選択する。悪に支配されていたわたしが、罪の支配から抜け出すために、キリストは十字架を負ってくださった。このお方が、我々をご自分のものとして取り返してくださった。十字架のイエスが、我々を自由にしてくださった。この自由から再び縛り合う不自由へと戻ってはならない。キリストがいのちをかけて、獲得してくださった自由を失ってはならない。キリストの言葉を聞き続けることこそが、この自由を生きる力である。

十字架の言葉は滅んでいる者には愚かである。しかし、救われているわたしたちには神の可能とする力である。十字架の言葉を、意志を持って聞き、縛られている鎖を解いていただこう。あなたは、自由に生きることができる。何ものにも縛られることなく、何ものをも縛ることなく、互いに自由を生きる者として生きて行こう。キリストは十字架の上で自由を生きておられる。我々もキリストの自由に与って生きていこう。祈ります。

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