「大胆なる自由」

2018年9月23日(聖霊降臨後第18主日)

マルコによる福音書8章27節~38節

 

「わたしの後ろに行け、サタン」とイエスはペトロに言う。同じようにイエスは言う。「わたしの後ろに従うことを意志する者は、自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従え」と。後ろに行くことは、従うことである。イエスの後ろに行くことはイエスに従うことであるが、イエスの前に立たないことである。誘惑する者、サタンはイエスの前に立って、闇へと誘う。前に立つな、後ろに行けとイエスはペトロに言った。ペトロがサタンに使われ、イエスを闇に誘おうとするがゆえに、後ろに行けと言った。

後ろに行く者は支配することはできない。むしろ、自分がその人の支配に服し、その人の命令に従う。その人を自らの支配者として尊敬し、その人が自らを守ってくださると信頼している。反対にペトロがイエスを守ろうとすることで、彼はイエスを支配しようとしたということである。それは従う者のすることではない。支配する者のすることである。ペトロはイエスが死んでしまってはならないと、あるいは不吉なことを語ってはならないとイエスをいさめることにおいて、イエスを自分よりも弱い存在として、支配しようとしたということである。

さらに、イエスはペトロに言う。「なぜなら、あなたはよく考えているからだ、神の事柄ではなく、人間の事柄を」と。神の事柄をよく考える者はイエスの後ろ姿に神の事柄を見る。人間の事柄をよく考える者はイエスの後ろ姿に神の事柄を見ることはない。イエスの前に立って、人間的な視点からイエスを判断し、人間の事柄を自分がうまく動かそうとする。あるいは、イエスを見ないで、人間の事柄を良く考える。人間の事柄はよく考えても人間の事柄。神の事柄にはなり得ない。しかし、罪深い人間は、自分が神の事柄に為し得ると思い込んでしまう。神の事柄は人間が扱うことではない。神の事柄は人間が造り出すものでもない。神が造り出し、神が支配し、神が導き給う。それが神の事柄である。我々は神の事柄の後ろに従って行くだけである。人間としての弁えはそこにある。

ペトロはイエスにおける神の事柄を人間の事柄にしてしまう過ちを犯した。この過ちはペトロがイエスの前に立ちはだかったがゆえである。我々はイエスの前に立ってはならない。イエスの後ろに行って、イエスの歩む道を神の事柄として従って行くのである。そのとき、我々は自分にできるか否かという問いを持つことはない。純粋に、単純に従う。それができないとき、我々は自分がイエスの前に立とうとしていると弁えるべきである。神の前に立って、神の事柄を行おうとしていると知るべきである。神の事柄は神の事柄であり、人間には為し得ないことだと弁えるべきである。

一方、イエスには大胆なる自由がある。人間の事柄を考えるのではなく、神の事柄を考えているからである。それゆえに、イエスは大胆に弟子たちに語ったと聖書は語っている。「大胆に、彼は語っている」と。これは「公然と隠さずに語る」ということである。新共同訳は「はっきりとお話になった」と訳している。「はっきりと」と訳される言葉はパレーシアというギリシア語で「公然と隠さずに」という意味であるが、「大胆に」という意味でもある。イエスには大胆さがあった。大胆なる自由があった。自分がどう思われるかと考えることなく、真実を大胆に語った。それゆえに、イエスは疎まれ、殺害されることになった。イエスの大胆さは最終的には殺害に至るほどの大胆さである。殺害されることになろうとも真実を語る自由をイエスは生きておられる。その自由を奪おうとするサタンにペトロは使われたのである。

イエスの自由を誰も奪うことはできない。たとえ、十字架の死に引き渡されようともイエスは自由である。自由に生きるということは、十字架を恐れないというよりも、神の事柄をよく考えているということである。神が与え給うた自由を人間的な事柄のために使用しないということである。人間的な事柄のために使用した時点で、罪の奴隷になっている。しかし、罪の奴隷となっている者は、人間的な事柄に使用しているとは思わない。ペトロのように神の事柄をよく考えていると思っている。ところが、ペトロが考えた神の事柄は、神であるならば死に渡されることなく、反対者に打ち勝つというペトロの思い込みである。ペトロが考えた神らしさである。ペトロはイエスに神らしさを求めた。ペトロが考える神らしさを現して欲しいと思った。ペトロがイエスに神であって欲しいと押しつけたのだ。これはペトロの人間的な思考であり、人間の事柄をよく考えた結果である。神らしく振る舞ってくれれば、もっと多くの人たちがイエスに従ってくるに違いないという人間的思考である。しかし、イエスはそれを拒否し、弟子たちにも拒否するようにと勧める。イエスはご自身が大胆なる自由を生きておられるように、弟子たちにも生きて欲しいからである。

「自分を捨てよ」とは自分に縛られるなということである。自分に縛られて、人間は生き難くなる。こうであらねばならないと自分を縛る。それが善に思えてくる。しかし、自分を縛るということは他者をも縛ることに至るとは考えない。そして、サタンに取り込まれていく。自分が行ったことを捨てなければ、自分を捨てていないのだ。自分が行ったことが良いことであると思い込んでいるのも、ペトロの場合と同じである。良いことに縛られている。善きことは神のみが為し給う。我々が為すべきことは、神が為し給う御業の中に入れられ、従うということだけなのだ。わたしが善をなしたと思うとき、あなたは罪を犯している。あなたは何も為してはいない。ただ神が用い給うたのだと信じるとき、あなたは神に従っている。自分を捨てるとはそのようなことである。そのとき、あなたは大胆なる自由を生きることができるのだ、イエスと共に。

イエスが大胆なる自由の中で弟子たちに語った言葉は、神の言葉である。神が定め給い、神が行い給い、神が実現し給う御業。それだけが我々が従うべき言葉、神の言葉である。「大胆に、ロゴスを、彼は語っている」という言葉を新共同訳は「そのことをはっきりとお話になった」と訳している。イエスはロゴスである神の言葉を語ったのだ。ロゴスとは、必ず実現する神の言葉である。イエスは、ご自身が被るであろう十字架の死を、必ず実現する神の言葉ロゴスとして語っているのである。イエスは神の言葉として語ったのだから、聞いた者には従うか否かが問われているだけである。人間は神の言葉に従って生きるようにと造られたのだ。神の言葉をさまたげる存在はサタンだけである。ペトロはサタンによって、自分の思いに縛られ、イエスを動かそうとした。それゆえに、「わたしの後ろに行け」とイエスに言われるのである。

「わたしの後ろに行け」とは、わたしがあなたをサタンから守るということでもあろう。イエスの後ろに行くならば、我々の前にイエスが立ってくださる。サタンから誘われたとしても、イエスが神の言葉をもって戦ってくださる。我々は、サタンと戦うのではなく、イエスの後ろに行くのだ。そのとき、我々はサタンの働きから守られ、神の言葉に従う信仰のうちに生かされ行くであろう。そのような人は大胆なる自由を生きることができる。イエスのように、たとえ死に直面してもなお、自分自身を失うことはない。自分を守ろうとするとき、我々は自分に縛られている。あなたを守るのはイエスであり、神なのだ。あなたは自分自身の魂を守ることはできない。ただ、神だけがあなたを守ってくださる。イエスのみが守ってくださる。

イエスの後ろに行くならば、大胆なる自由を生きることができる。誰にも振り回されることなく、ただ神の言葉に従って生きることができる。大胆に真実を語り、自由に生きることができる。この大胆なる自由を与えるために、キリストは十字架を負ってくださったのだ。この自由を失うことがないように、自分自身を縛っている自分を捨てて、キリストに従って行こう。あなたは自由なる者として生きるために、救われたのだから。誰にも縛られることなく、真実の自由を生きるのだ。

祈ります。

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