「塩を造る火」

2018年10月7日(聖霊降臨後第20主日)

マルコによる福音書9章38節~50節

 

「なぜなら、あなたがたがキリストのものであるという名において、あなたがたに水の杯を飲ませる者は、わたしはあなたがたに真実を言うが、彼の報いを破壊することはないからである」とイエスは弟子たちに言う。「なぜなら」と始まっているのだから、この前に語られていた出来事と関わりがある発言である。その出来事とは、イエスの名において悪霊を追い出していた人が従わないから弟子たちがその人を制止したという出来事である。それに対して、イエスは制止してはならないと答え、「わたしたちに敵対してあるのではない者は、わたしたちのためにあるのだ」とおっしゃった。それに続いて、「水の杯を飲ませる者は」と言うのである。この話の関連が良く分からない。ここでイエスがおっしゃっているのは、「わたしたちのためにある存在」というのは、敵対していないすべての者がそうなのだということである。つまり、わたしたちに従ってこないとしても、敵対していないのであれば、その人は「わたしたちのためにある存在」だとイエスは言うのである。それは、水の杯を差し出してくれる人と同じなのだと言っているのである。

水の杯を差し出してくれる人は、確かにわたしたちのためにある存在である。しかし、従ってこない人はわたしたちのためにあるのかと弟子たちは考えた。従わないのだから、敵対していると考えたのである。ところが、一緒に来ないとしても、敵対しておらず、イエスの名において悪霊を追い出しているのであるから、わたしたちのためにある存在、わたしたちの側にある存在なのだとイエスは言うのだ。これが、我々が考える視点とイエスが見る視点の違いである。イエスに従うとはいったいどういうことかをよく考えてみなければならないのである。

従うと聞くと、一緒に何かをすることだと思ってしまいがちである。しかし、弟子たちに従って、一緒に何かをしないとしても、イエスの名において悪霊を追い出しているのだから、イエスの名に従っているのである。一緒の場所にいることや一緒に何かをすることだけが従うことではない。別々の場所であろうと、別々の事柄であろうと、イエスの名において行っていることが重要なのである。イエスはそうおっしゃっているのだ。

もちろん、悪霊を追い出して、自分たちの力を誇示するならば、イエスの名に従っているわけではない。自分たちの名を主体としているだけである。イエスの名において行うことは、如何なることであろうともイエスの名に従って行っているのであり、イエスの名にふさわしいことを行っているのである。もちろん、その人が行うわけではない。イエスの名が行う。イエスの名が行っていることを受け入れて従っているのだ。違う働きであろうと、違う場所であろうと、イエスの名が行っていることに従っているならば、イエスに従っているのだ。たとえ、その人が自分の気に入らない人であろうと、自分と意見が違う人であろうと、イエスの名に従っているならば、同じ「キリストのものである」ところに生きている。一人ひとりがキリストの名において生き、行っている者、それがキリスト者なのである。そこにおいて一致しているならば、「わたしたちのためにある存在」だとイエスは言うのだ。そのような人の働きを制止し、妨げるのは、まさに躓きを与えるようなものだとイエスは続けて言う。

躓きとは、人を転ばせることである。聖書に従えば、信じる者を神から引き離してしまうことが躓きを与えることである。そのような人は躓きを与えているとき、すでに地獄の火に焼かれているとイエスは言う。生きていても死んでいるようなものである。だから、海の深みに投げ込まれる方が良いと。さらに、自分の中で自分を神から引き離してしまうように働く手や目があるならば、一つを投げ捨てるようにとイエスは言う。これは、自分自身の不純さを切り捨てることを意味している。不純なものを切り捨てて、片手、片足、片目になっても、いのちに与っていることの方が大事なのだと言う。これは厳しい言葉である。このような言葉を聞くと、「わたしにはできない」と思ってしまうであろう。そうである。我々にはできないのだ。それゆえに、塩味をつける火について、イエスは語る。

地獄の火にも同じ作用があるであろう。しかし、死んでしまってから地獄の火に入れられるよりも、生きていて自分の内に塩を造る火で精錬してもらう方が良いのだということである。その火とはいったい何か。イエスの言葉である。イエスの言葉は、我々が何もできないことを語る火のような言葉である。火がすべてを焼き尽くすように、イエスの言葉も我々のすべてを焼き尽くす。できるか、できないかを考えている間は、我々はいまだ「できる」と思っている。ただし、完全にはできないかも知れないとも思っているであろう。完全にできないのであれば、できないのだ。少しはできるかも知れないが、ここまでできたならば赦してもらえるだろうかと我々は考えるであろう。しかし、完全にできないのであれば、まったくできないのと同じである。少しできたとしても価値はない。我々が他者と比較する場合、少しできるか、もっとできるかを競っているだけである。ドングリの背比べよろしく、我々は低いところで競っているだけ。その場合、すべての人は到達していないのだから、皆裁かれる。皆、できないという点において同じなのである。この認識が罪の自覚なのである。

大罪を犯そうとも、ちょっと嘘をついただけであろうとも同じ罪人である。同じ罪人の中で、お前は大罪を犯したと裁き、自分は嘘をついただけだと自己弁護するようなものである。どちらも同じ罪人である。神から離れてしまっている罪人である。そのような存在が、互いを認め合うとすれば、キリストの名において生きているということだけである。同じ罪人が、キリストの名において生きている者同士として認め合うならば、キリストの名が働いて、キリストの働きを行ってくださる。キリストの名が、このわたしに塩味を付けてくださる。キリストの言葉における火がわたしのうちに塩を造ってくださる。キリストの言葉がわたしに塩味を付け、わたしは塩味によって、自分自身を整えていく。これがキリスト者の生き方である。そのように生きている者同士は、互いに水の杯を差し出し合うであろう。互いのために生きるであろう。これが、今日イエスが教えてくださっている言葉である。

イエスの火、イエスの言葉は、わたしの内に働いて、わたしができないことを教えてくださる。わたしには力がないことを教えてくださる。イエスがわたしを受け入れてくださることだけを求めている間は、キリスト者として生きる方向にはいない。受け入れられることだけを求めているならば、何もしなくても良いのだと思い込み、罪を犯しても悔い改めることなく、できない自分で開き直っているだけである。イエスの言葉が火となって、わたしのうちに塩を造るようには生きていない。それではキリスト者ではないのだ。イエスの心地よい言葉だけを求めているならばキリスト者ではない。このわたしが絶対的に罪人であることを自覚する者がキリスト者である。そのような人は、他者のためにある存在として生きるであろう。自分の仲間内だけで生きることはないであろう。自分の仲間を増やそうとすることもないであろう。他者の働きを認めつつ、自らの働きをなしていくであろう。

我々は、キリストの言葉を聞き、このわたしのうちに塩が造られ、自分を断罪し、戒めるように生きる。塩を造る火であるキリストの言葉を聞かせるために毎週集め給う神に従って礼拝に参与する。自己断罪する者がキリスト者である。他者と比較する者はキリスト者ではない。キリストのものとして生きてはいない。我々がキリストの名において集められているところで、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。我々の内に塩を造ってくださる。キリストに従って生きる力を与えてくださる。あなたにできないとしても、わたしの名において行えと力を与えてくださる。塩を造る火をいただいて、自らを断罪しつつ、神の力によって生きて行こう。あなたを招き給うお方は救い主なのだから。

祈ります。

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