「神のくびき」

2018年10月14日(聖霊降臨後第21主日)

マルコによる福音書10章1節~16節

 

「それで、神が共にくびきに付けたものを、人間が引き離してはならない」とイエスは言う。さらに、「こどもを受け入れるように、神の国を受け入れない人は、決してそこに入らない」とも言う。これら二つの発言は違う状況で語られた言葉なのだが、その考え方は一つである。神の意志に従うということである。

我々人間は神の意志に従って創造された。この前提を持っていない人は受け入れないであろう。それゆえに、こどもを受け入れることもない。弟子たちがこどもたちを邪魔者のように叱ったことに、イエスは神の意志を認めない姿を見た。「これらのものたちのものである、神の国は」とイエスは言う。自分の邪魔をしないこどもならば受け入れるであろうが、それは受け入れることではない。受け入れるということは、そのこどもの存在を受け入れることであるが、いつ如何なるときも受け入れることである。そのように受け入れることなど誰もできないものである。我々にはまず自分たちの計画があるのだから。自分たちの時間があるのだから。それを邪魔することがなければ受け入れても良いと思う。それが一般的世界であり、自然的人間の思考である。

こどもだけではなく、夫婦関係も自分の思い通りにしたい。それゆえに、離縁状を渡せば妻を追い出すことができることにこだわる。それに対してイエスは、あなたがたの心の頑なさゆえに、モーセはそう命じたのだと答えている。結局、問題は心の頑なさなのである。それが人間の罪である。モーセは人間の罪に迎合したとでもイエスは言うようである。頑なな心に、どれだけ神の意志を語っても受け入れない。それゆえに、モーセは譲歩したのか。それはモーセが譲歩すべきことではなかった。神が譲歩していないのだから、モーセには譲歩する権限はなかった。にも関わらず、人間の罪の姿を赦すような命令を与えたことで、モーセは神の言葉を曲げたとも言える。人々がどれだけ言い募っても、譲歩すべきではなかった。彼らに迎合すべきではなかった。モーセは、人間に気に入られようとしたのであろうか。イエスはモーセをどのように見ているのだろうか。モーセであろうとも人間の弱さを持っているがゆえに、人間たちに迎合してしまったと、ここで語っているかのようである。たとえ、モーセが迎合したとしても、神の創造の意志は変わりないとイエスは言う。

神が共にくびきにつけたということは変わり得ない。それを人間が引き離すのであれば、神の意志に反しているのだから、律法で許されているものではないとイエスは言う。これをはっきり言うことなく、イエスは彼らの自己判断に委ねている。イエスの言葉を受け入れる者が受け入れるのであり、受け入れない者はどれだけ言っても受け入れない。人間は聞く耳のある者とない者に分かれてしまう。人間が聞く耳を持とうと思っても持つことはできない。聞く耳を与えられている者が聞く。

こどもたちを受け入れる者も同じように、与えられている者が受け入れる。イエスは受け入れるようにと勧めているのではない。事実を宣言しているだけである。「こどもを受け入れるように、神の国を受け入れない人は、神の国に入ることはない」のだと。これは受け入れれば、神の国に入ることができるとおっしゃっているのではない。こどもを受け入れない人は永遠に受け入れないということであり、永遠に神の国に入ることはないということである。決定しているようであるが、人間が決めることではなく、神が決定していることである。人間は決定しているように受け入れないだけである。あるいは、決定しているように受け入れるだけである。受け入れている人は神の国に入っている。受け入れない人は神の国に入っていない。それだけなのである。

これを人間が変えることはできない。しかし、悔い改めということがあるではないかと思うであろう。悔い改めも、悔い改める者が悔い改めるのであり、悔い改めない者は悔い改めないだけである。確かに、悔い改めるということは、それまで悔い改めていなかった者が悔い改めるのだから、今悔い改めていないからと言って、永遠に悔い改めないとは言えない。悔い改めるか否かは、我々人間が決定することではない。神が決定していることである。神の決定であるから、神のみがご存知である。それだけを信じていれば良いのだ。神が設定したくびきにつながれた者同士が互いを受け入れ合う。神のくびきが我々を受け入れる者にするくびきである。夫婦は文字通りのくびきにつながれた者同士である。こどもを受け入れることは、文字通りのくびきではないが、神が結びつくようにしてくださった者がこどもを受け入れるのである。受け入れない者は、親であろうとも受け入れない。これが人間の罪の姿である。

人間は罪ゆえに、基本的に自分以外の存在を受け入れないで、支配しようとする。わたしに支配されるならば受け入れようと思う。そうでなければ、受け入れないで排除する。自分を守るための防衛本能は必要である。しかし、人間は防衛本能の度が過ぎている。防衛本能が自己保存本能に発展し、自己中心の世界を作ろうとするところに導かれてしまう。悪魔は、人間をこのような方向に導いてしまう。神のくびきを認める存在は、自分を捨てて、神が付け給うたくびきを引き受ける。こどもを受け入れるように、神の国を受け入れる。

自然的には神の意志に逆らってまで自分の世界を守ろうとするわたしが、あえてこどもを受け入れるということである。このように神の意志を受け入れる存在が、神の決定に与っている存在である。こどもはあえて受け入れなければ受け入れることができない存在なのである。大人の世界を邪魔する存在だからである。こどもは既存のものを破壊する存在である。大人が構築したものを破壊する存在である。こどもたちは、大人が疑問に思いもしないことを不思議に思い、質問する。不意を突かれた大人は、そういうことになっているのだと答えることしかできない。こどもを受け入れる存在は、確かに不思議だねとこどもと同じ視点で物事を考え直してみる。考え直して、既存の価値や規定を承認することもある。また考え直して、既存のものを変えた方が良いと考えるようになることもある。後者の場合、変革が起こる。マルティン・ルターも、後者のような考え直しを受け入れ、こどものように神の国を受け入れるようにされた。それゆえに、ルターはこどものような視点で世界を見直したと言える。この視点の変換も神のくびきである。そこから、小教理問答も作られた。

ルターが負わされた神のくびきに、共に付けられた者たちがルターの輩と呼ばれるようになった。これがルーテル教会の始まりである。そうであるからこそ、ルターの300年後に生きたフリードリッヒ・フレーベルは「こどもたちを受容し、神のはぐくみに従順に従う」という保育理念を提唱したのである。彼が提唱した保育理念は、こどもたちの園、キンダーガルテンとして実現した。それは神の国を表している。日本にも幼稚園という呼び名だけは輸入されたが、その信仰的本質は受け入れられていない。「こどもたちを受け入れるように、神の国を受け入れない者。そのような者は神の国に決して入らない」。こどもたちこそ、神の国の住人なのだとイエスは言うからである。

神のくびきに共に付けられた者同士が受け入れ合い、共に神の国を見るであろう。それがキリスト者であり、キリスト教会である。我々は神のくびきに共に付けられた者同士。互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに戒め合う。もはや、悪魔の誘いに流されることなく、神の国を共に生きる。このようになる者として召しだしてくださった神に感謝しよう。あなたは、神の国のくびきにつながれている。共に耐え忍び、共に励まし、共に歩んでいこう。

神が結び合わせたものを人間が引き離してはならない。我々が神によって結び合わされた存在として生きて行くことができるようにと、キリストは神の意志に従い、十字架を負ってくださった。罪の縄目から解放してくださった。キリストの十字架を見上げて、共に進み行こう。

祈ります。

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