「イエスの眼差し」

2018年10月21日(聖霊降臨後第21主日)

マルコによる福音書10章17節~31節

 

「イエスは彼に目を留め、彼を愛した。そして彼に言った」と言われている。また、「イエスは彼らに目を留め、彼らに言った」とも言われている。今日の箇所でイエスは金持ちと弟子たちに同じように「目を留めて」から、言葉を発している。金持ちに対して「目を留め」という言葉の後に、「彼を愛した」と語られているとおり、「目を留める」ということは愛することなのである。

「目を留める」という言葉はエンブレポーというギリシア語で「エン」は「何々の中に」を意味する接頭辞であり、ブレポーが「見る」、「一瞥する」という意味だから、その人のうちなるものに目を留めることを意味している。金持ちも弟子たちもうちなるものをイエスに見ていただいた。イエスは彼らのうちにある思い煩いの根源に目を留めて、彼らを愛して、言葉を語ったのである。イエスが語った言葉は彼らのうちなるものへの答えである。それは彼ら自身の判断に縛られている姿であった。それゆえに、イエスは言う。「神の判断では、すべてのことは可能なことである」と。

「神の判断では」と訳した27節の言葉は、新共同訳では「神には」と訳されている。ここで使われている前置詞パラは「そばに」が原意である。この後に続く名詞が所有格か目的格か間接目的語かによって意味が変わってくる。間接目的語の場合「のそばで」、「のところで」、「の面前で」、「の判断において」という意味になる。人間の面前において見ているものと神の面前において見ているものとの違いをイエスは語っているのである。イエスの見ているものは神の面前において見ているものなのだから、イエスの眼差しは一人ひとりのうちなるものを見ているのである。イエスはその人のうちに何が欠けているかを見て、語っておられる。イエスの眼差しは、一人ひとりのうちなるものを見て、欠けているものが見える眼差しであり、それゆえにイエスは彼らを愛するのである。愛するがゆえに、必要なものについて語る。それはいったい何か。

金持ちに対して語ることと、弟子たちに対して語ることは別のもののように思える。金持ちに対しては「所有しているものを売れ」と言う。弟子たちに対しては「神の判断」を語り、「人間の判断」を離れることを語る。金持ちも弟子たちも神に信頼してはいない。金持ちは、自分の所有に固執しているがゆえに、神に信頼できないでいる。それゆえに、所有を捨てることをイエスは勧める。弟子たちには、直接的な神への信頼を勧める。ということは、イエスが見ている彼らのうちなるものは結局同じなのである。神への信頼がないということだけである。

イエスは、神への信頼がない存在が如何に悩んでいる風を装って質問してきても、言われたとおりに行うつもりがないということをご存知なのである。それが金持ちのうちなるものであり、弟子たちのうちなるものである。どうしたら良いのだろうかと悩み質問しているようでいて、こうしなさいと言われても絶対にそうしないつもりで聞いている。それが分かるがゆえに、イエスは彼らを愛する。彼らが嘘をついていることが丸見えであるがゆえに、彼らを愛するのである。イエスの前ではすべてが明らかであるということを知らない愚かさをイエスは愛する。どうしてなのか。少なくとも、金持ちも弟子たちもイエスに聞いているからである。

イエスに反対しているのではない。わたしにはできないと言う人も、イエスの言うことは正しいと認めているが、したくないだけである。それなのに、したくないとは言わず、できないと言うだけである。そして「できなくても神さまはあなたを赦してくださいますよ」と言って欲しいのである。神は丸見えの嘘をつく人間を愛しておられる。従う気もないのに、できませんと言う人間の内面をご存知で、彼らを愛しておられる。しかし、愛を受け取ったならば、愛に応えるであろう。応えないのであれば、受け取っていないのである。ただそれだけである。神の判断を優先せず、自分の判断を優先する。人間とはそのようなものであると神はご存知である。しかし、人間は自分を守り、自分を捨てることができない、わたしには不可能ですと、したくない理由を述べる。したくないのであって、できないのではない。できないというのは人間の判断であって、神の判断ではない。神はできないことをご存知である。しかし、為すべきことはある。それゆえに、神は十戒を与え、律法を制定してくださった。為すべきことを為し得ないことはご存知なのだから、為さなくとも良いというわけではない。為すべきことは為さなければならない。それができるか否かが問題なのではない。神に従うか否かが問題なのだ。

わたしが為し得ないと知っているならば、神に祈るであろう。為させてください、為すべき力をお与えくださいと。祈ることもなく、為し得ませんから赦してくださいということではないのだ。赦しとは免罪でも罰の減免でもない。赦しとは、解放されることであり、自分で自分を不可能性に縛っていた人間の判断を捨てて、神の可能性の中に入ることである。神が我々の罪を赦すということは、しなくとも良いということではない。言い訳をして、為すべき力がないと為すことを逃れることが罪を赦されることではない。神の力を信頼できないように罪に縛られていたところから解放してくださることが赦しなのである。そのとき、我々は人間の判断においてではなく、神の判断において生きるようにされる。わたしには無理だと思えるが、神がおっしゃるのだから可能なのだと従う。神が思いを起こして下さったのだから、実現して下さるのだと神に信頼する。わたしの判断を捨てて、神の判断に従うことが自分を捨てることである。

自分を捨てることができないのが、人間ではないか。それゆえに、弟子たちはイエスに言うのだ。「誰が救われることを可能とされているのか。」と。自分を捨てることができない人間は可能とされていないのだと弟子たちは言う。しかし、イエスは言う。「人間の判断においては不可能なことだが、神の判断においては可能である。なぜなら、すべてのことは神の判断において可能なことだからである」と。自分を捨てることができないと言い訳して、捨てないのではなく、神の判断に従うことをイエスは勧めている。人間はどれだけ自分で考えても自分の判断でしかない。自分の可能と考える範囲に限定された判断でしかない。自分で限定している範囲というものは、自分が苦労しなくて良い範囲である。金持ちも苦労してまで所有を捨てたくない。それ以外に何か方法はないかとイエスに質問したと言える。イエスは彼のうちなるものを良く見ておられたので、捨てるしかないと答えたのである。彼が自分にはできないことを離れて、神における可能に生きるために、イエスはこのように答えた。それだけである。

しかし、捨てたくない思いを捨てるにはどうしたら良いのだろうかと思うであろう。捨てたくない思いを認めることからしか始まらない。そこから、神の力を信頼するところへと開かれる信仰を祈り求めるのである。捨てたくない思いは人間の判断に縛られた思いである。捨ててしまったらこの先どうなるのかと心配になる。考えてみれば、これまでも神はすべてのものを与えてくださって、わたしを満たしてくださったはずである。それなのに、わたしは所有を手放すことができないでいる。手放すことで、新しいものを受け取ることができるのに、手放さずに新しいものを増やしたい。この強欲のゆえに、我々は救われがたい人間として生きることになる。そのようなわたし自身を良く見てくださっているお方がイエス・キリストである。

キリストは我々の強欲さをご存知で、それでも我々を愛するがゆえに、あの十字架を負ってくださった。十字架の上に、我々の捨てがたい自分を葬ってくださった。「わたしは死んでも生きている」とキリストは十字架の上から語っておられる。このお方に信頼して生きるとき、我々は自分の判断では不可能に思えることも、神の判断において可能なのだと取り組んで行くことが可能となる。あなたのうちに生きてくださるお方によって、可能とされるいのちを生きて行こう、キリストの十字架を見上げて。

祈ります。

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