「神の子の苦難」

2018年11月4日(全聖徒主日)

ヨハネによる福音書16章25節~33節

 

「なぜなら、父ご自身があなたがたを愛しているから。なぜなら、あなたがたがわたしを愛したから、そして、あなたがたが信じたから、わたしが父の許から出てきたと」とイエスは言う。父御自身があなたがたを愛していると言う。弟子たちが罪深くとも父は愛しておられると言う。その愛がどこで分かるかと言えば、「あなたがたがわたしを愛した」ということからだと言う。弟子たちがイエスを愛したことから分かるのは、父ご自身が弟子たちを愛しているということだとイエスは言うのである。イエスを愛するということは、父に愛されている者が愛するということなのである。つまり、父に愛されて、イエスを愛する者として造られるのである。弟子たちがイエスを愛するのではなく、父の愛が弟子たちを愛する者として造るということである。このようである者は如何なる生を与えられているのかをイエスは続けて語る。苦難を負う者であると。

33節でイエスがおっしゃるとおり、弟子たちにはこの世で苦難がある。苦難に襲われる弟子たちをイエスは知っている。その弟子たちが苦難を負うことができるようにとイエスは言う。「勇気を出せ。わたしが世に勝ってしまっている」と。苦難を負う力はイエスの勝利の力。弟子たちの力ではない。弟子たちには苦難を負おうという気概もないであろう。それゆえに、イエスは弟子たちを励ます。彼らが苦難を引き受けて、イエスの勝利の力に満たされるようにと励ます。イエスの言葉があるがゆえに、イエスに従い、それぞれに自分の十字架を取って、歩み続ける。未だ、弟子たちには苦難は見えていない、イエスが共におられるから。いずれ、ときが来て、弟子たちがイエスを一人置き去りにしてしまう。それでもイエスは一人ではない。父がイエスと共におられる。イエスは置き去りにされても、父が共におられるから、力をいただけると知っている。このイエスと同じように、弟子たちはイエスの力によって立ち上がることができる。イエスの勝利の力によって立ち上がることができる。

全聖徒主日の今日、覚えるべきはイエスの力によって生きるということである。我々は自分の力によって生きるのではない。イエスの力によって生きる。キリスト者という呼び名は、キリストのものである存在ということである。もちろん、「キリスト、キリスト」と言い回っている輩と、外部の人間が付けた名である。アンティオキアにおいて、初めてキリスト者と呼ばれることになった。その名を自らの名として受け入れたとき、彼らは蔑みの名を自らの信仰において受け入れた。「外部の者が言うとおり、我々はキリストのものである存在なのだ」と。我々の力によって生きているのではないのだから、外部の者は正しく言い表したのだと受け入れた。受け入れたとき、彼らは自らをキリスト者と呼び始め、この世から蔑まれることをも厭わなかった。それが聖徒たちである。外部の者たちが「キリスト、キリスト」と言うだけの存在だと蔑んでも、蔑みの名を神が与え給うた名だと受け入れた。受け入れることによって、蔑みは蔑みではなく、正しい神の意志として受け入れられた。彼らにはこの世の苦難さえも神の恵みであった。それがキリスト者であり、聖徒たちなのである。

聖徒たちは、キリストの似姿と同じ形にされることを喜ぶ。キリストのような大いなる十字架ではなくとも、負わせられた自分の十字架を取って歩む。キリストに従って歩む。これが聖徒たちである。聖徒たちはキリストの力によって生きた者たち。我々は彼らに倣い、彼らが生きたキリストの力をいただいて、生きて行く。聖徒として生きて行く。我々もまた召される日まで、地上の生をキリストのものとして生きていく。聖徒と呼ばれるに値しないと思ってもなお、聖徒は聖徒である。我々の力によって聖徒となるわけではないからである。キリストの力によって聖徒であるという神の現実を生きて行くのがキリスト者である。

使徒パウロもガラテヤの信徒たちを神の子と呼んでいる。ガラテヤの信徒たちは、パウロが宣べ伝えた真実の福音から離れて、異なる福音に惹かれていった。それでもパウロは彼らをキリスト・イエスのうちにある神の子と呼ぶ。コリントの信徒たちも問題の多い人たちであった。彼らにも「キリスト・イエスのうちで、聖とされた者たち」と呼びかけている。神の子、聖とされた者たちとは、いわゆる聖徒と呼ばれる存在である。それを決定するのは、信徒自身ではなく、神であり、キリスト・イエスのうちにあるという神の現実である。

だからこそ、悪を働き続けても聖徒でいられるとは自分で言うことはできない。聖徒とは、自分で言う事柄ではなく、絶対的他者である神とキリスト・イエスが認める事柄なのである。神とキリスト・イエスのうちにある存在なのである。悪であり、罪深い自らの力で聖徒となろうとしてもなれるものではない。神の召し給うご意志に従って、聖徒であり神の子なのである。それゆえに、我々が全聖徒主日に覚える聖徒たちは神の力によって聖なる者とされた人たちである。彼らは地上に生きている間、罪深くなかったわけではない。しかし、罪深い自分のために十字架を負ってくださったキリストを信じるがゆえに、その御力のうちで生きたがゆえに、彼らは聖徒なのである。自分の力で生き続ける者は、如何に敬虔さを装っても聖徒であるとは言えない。しかし、我々人間が如何に罪深く、悪しか行わないとしても、神が聖徒として、キリストの者として生かし給うと信じて生きる者は、罪を認め、悪から離れるであろう。聖なる者とされたのは、自分の力ではないと知っているからである。

我々がこの世で苦難を負うとしても、我々がキリストの者であり、神の聖なる者たちであるという神の現実が、我々を守り給う。キリストの勝利の力によって守り給う。神は、我々が聖なる者に相応しく、神の力によって生きるようにしてくださる。この聖なる御心を生きる者は、謙虚に自分の力を捨て、神こそわたしの岩、わたしのいのちと讃美するであろう。この告白において、我々は地上的には未だ罪の中にあるとしても、聖なる者である。

今日、我々が覚える聖徒たちは、このような人たちである。地上の人生の終わりに至るまで、神の力に寄りすがり、キリストの勝利を信じて、歩み続けた人たちである。なごや希望教会に連なる者だけではなく、キリストの教会に連なる者たちすべては、聖徒たち。キリストの者として生きた者たち。我々はこの日、彼らが幸いなる神の子として神の御許に憩っていることを覚えよう。終わりの日に、神の御前で一人ひとりと共に、神を讃美し、神の言葉を聞くことを望み見よう。

「勇気を出せ。わたしが世に勝ってしまっている」とおっしゃるイエスは、弟子たちの力を求めてはいない。ただ、イエスに寄りすがることを求めている。「あなたがたはわたしの勝利に寄りすがれ。わたしが世に勝ってしまっているのだから、あなたがたを完全に害するものなど何もない。苦難は確かにある。しかし、勇気を出せ。わたしの力によって生きよ」とイエスは弟子たちを励ます。我々キリスト者は、このイエスの言を真実に聞く者たち。我々キリスト者は、このイエスの言に勇気をいただく者たち。我々キリスト者は、このイエスの言を旗印として進み行く者たち。すでに勝利してしまっているキリストが我々に先立ち給う。何も恐れることはない。パウロが言うように、苦難さえも善となるのだから。苦難さえも我々の救いとなるのだから。苦難の向こうに我々の復活があるのだから。

わたしが負うべき苦難を引き受けていこう。キリストの力によって引き受けていこう。キリストの言葉に信頼して、苦難のうちに孕まれている復活を生きて行こう。キリストは、ご自身の力を我々に分け与えるために、聖餐を設定してくださった。今日もまた、キリストの体と血に与り、キリストの似姿と同じ形に造り給うお方の力に満たされる。あなたがたはキリストの者たち。聖なる者たち。キリストに呼び出された者たち。キリストがあなたがたを聖なる者としてくださる。キリストを派遣した神が、あなたがたを神の子としてくださる。

祈ります。

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