「完全なみことば」

2018年11月11日(聖霊降臨後第25主日)

マルコによる福音書12章28節~34節

 

「聞け、イスラエルよ。わたしたちの神、主は、一なる主である。あなたは愛しなさい、あなたの神、主を、あなたの心全体から、あなたの魂全体から、あなたの思考全体から、あなたの力全体から」とイエスは申命記6章のみことばを語る。それに対して、律法学者はこう答えている。「あなたは真実に語った。彼は一であり、彼以外のものはいないと。そして彼を愛すること、心全体から、判断力全体から、力全体からと。」 イエスが語ったのは、申命記の言葉そのままではない。ヘブライ語原文では、「心」、「魂」、「力」という三つが述べられているが、イエスは「思考」を加えている。律法学者は三つを述べるが「魂」を「判断力」に変えている。さらに「あなたの」という所有格を省いている。所有格のない、人格のない一般的「心」、「判断力」、「力」の三つを述べている。もし、律法学者が自分の事柄としてイエスに答えるとすれば「あなたの」を「わたしの」に変えて答えることはあり得る。しかし、律法学者は所有格を省き、イエスが語った四つの「全体から」という言葉を、ヘブライ語原文の三つにしている。その際に「魂」ではなく「判断力」に変えている。律法学者は聖書のみことばに数的には忠実であって、理解においては理性的理解を示している。「魂」を「判断力」としているからである。それゆえに、イエスは彼に対して「遠くないところにあなたはいる、神の国から」とおっしゃった。

イエスの引用を正しい数に戻しているが、「魂」を「判断力」としている点では遠い。近いと遠いの中間地点である「遠くはない」ところに彼はいるとイエスは言った。律法学者は数的には正確に修正しているが、みことばを自らのこととして答えてはいない。神の言葉を客観的な事柄として所有格を付けずに答えている。彼は自分自身が神の言葉の対象、神が語りかけ給う相手であるとは考えていない。それゆえに、彼は遠くないところにいるが、近くもないし、神の国の中に入ってもいない。

遠いところにいる場合は、神の言葉は自分とは関係ないと拒絶しているであろう。近いところにいるならば、神の言葉に従うように生きようとしているであろう。遠くもなく近くもないところにいる者は、神の言葉は理解するが、知識に留まる。自分がそのように生きようとすることもなく、生きることができないと悩むこともなく、神に祈ることもない。客観的知識はそれだけである。遠いところにはいないが、近くもない。まして、神の国の中に生きてもいない。それが律法学者の中途半端さ、遠くはないということである。

聖書の言葉が神の言葉であると信じるならば、聖書の言葉の中に自らを投げ込むであろう。それが所有格の問題なのである。神が語られたとおりに生きることができるか否かは問題ではなく、神が語られたとおりに生きようと求めて行くこと。求めて行く中で、語られたとおりに生きることの困難さ、自らの不可能性を認識したとき、神に祈り求める者として形作られること。神に祈り求めるのは、自らの不可能性を可能に変え給う力を持っておられるのは神であると信頼するからである。律法学者は、自らの不可能性を受け入れることなく、ただ客観的に神の言葉を語る。理性的な事柄として語る。ここに問題が生じているのである。

イエスは律法学者が「適切に答えたのを見て」、「遠くはない」と言っている。この「適切に」という言葉は、「理性を持って」という言葉である。理性に従った適切性を表す言葉である。イエスは「理性を持って」いることは認めるが、それだけでは近くはなく、遠くもなく、中途半端だとおっしゃっている。人間の自然的理性では神の言葉を自分の事柄として生きることはできないのである。人間の自然的理性は信仰の事柄を理性で受け入れやすいように変えてしまうのである。それゆえに、律法学者は「魂」と「思考」を合わせて「理性」としたであろう。魂は理性とは違う事柄、信仰に関わっている。彼にとっては神との関係に入ることよりも、「理性」によって神を理解することの方が重要なのである。これが、律法学者が理解している神の言葉、いや彼が受け入れることができる神の言葉なのである。

しかし、イエスも神の言葉をそのままに語ってはいない。本来の「神の可能とする力」という言葉を「思考」と「力」にしている。これはどういうことであろうか。律法学者が正しく修正するかを試すためであろうか。いや、イエスは人を試すことなどなさらない。では、何故に変更しているのだろうか。イエスは「あなたの思考全体から、あなたの力全体から」神を愛せと引用している。「神の可能とする力」は「思考」と「力」において現れるという理解であろう。神の力の現れるところ、思考と力全体から神を愛せとおっしゃったのだ。それは、思考と力を神の力に従わせることを意味している。それが「魂」における神との関係を生きることだからである。律法学者は「理性」を重視し、イエスは「魂」を重視した。この違いが、遠いか近いかの違いとして語られているのである。

確かに、理性を捨てて、魂における神との関係を生きるなどと言うと、分からないままに従うことのように思えて、宗教は恐いと考えてしまうであろう。それゆえに、理性的な律法学者は分からないままに従う信仰ではなく、理性的な判断力を重視したと言える。ところが、魂の問題は、「わたし」という存在の問題なのである。理性を捨てるのではなく、自然的理性では理解不可能な神の事柄を、神が開き給う神的理性によって受け取るということなのである。神的理性というのは、使徒パウロが言うように、神の理性のことである。パウロはコリントの信徒への手紙一2章16節でこう語っている。「わたしたちは持っている、キリストの理性を」と。パウロは、神の事柄を受け取るのは神の霊であり、人間の事柄を受け取るのは人間の霊であると述べた。その上で、神が聖霊を我々に与えて、神の事柄を受け入れるようにしてくださったと言う。さらに、「わたしたちは持っている、キリストの理性を」と結んでいるのである。このように述べられている限り、自然的人間理性は人間の事柄を理解はするであろうが、神の事柄である信仰の世界を受け入れることはないということである。神の理性、キリストの理性を与えるのは神の霊である聖霊なのである。

ここから考えてみれば、律法学者が理性を重視することによって、神の事柄を受け入れるよりも、人間的に理解できるように神の言葉を語っていたということである。聖霊は魂に働きかけ、人間的理性を開き、神的理性が働くようにしてくださるのだ。これは、ルカによる福音書24章45節で述べられているとおりである。復活後のイエスが弟子たちの「心の目を開いた」と訳されているが、原文は「聖書を理解する彼らの理性を開いた」なのである。信仰的理性、神の事柄を受け入れる理性が開かれているのがキリスト者なのである。自然的理性では受け入れ難いことを受け入れるようにされているのがキリスト者なのである。これは分からないままに信じるということではない。神の霊によって神的理性を開かれて信じるということなのである。キリスト者は自然的理性を越えて、キリスト者とされる。自然的理性では神の言葉を完全なる言葉として聞くことはないからである。人間の言葉と同じように聞いてしまう。そのとき、神の言葉とは、語ったことを実現し給う完全なる言葉だとは思ってもみない。自分に理解可能な言葉でしかない。人間の理性の範囲内の言葉でしかない。それは神の言葉ではない。

我々キリスト者は、完全なるみことばである神の言葉を神の理性によって聞くのである。ご自身の語り給うたことを実現する言葉として聞くのである。わたしの魂に語りかけ給う言葉として聞くのである。そのように聞くことは、あなた自身からは生じない。神の霊から生じる。神から生じる。神の子イエス・キリストが実現してくださる。どうか神が、あなたの心全体、あなたの魂全体、あなたの思考全体、あなたの力全体を、ご自身のものとしてあなたのうちに働かせ、神を愛する者として生かしてくださるように。完全なるみことばは、あなたのうちに働いて、あなたを神の子としてくださる。

祈ります。

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