「信頼と賭け」

2018年11月18日(聖霊降臨後第26主日)

マルコによる福音書12章41節~44節

 

「わたしはあなたがたに言う。あの貧しいやもめ自身が投げ入れた、献金箱へ投げ入れているすべての人よりも多くのものを」とイエスは言う。やもめの献金をより多くのものだとイエスは宣言する。どうしてなのか。「彼女の欠乏から、彼女は持っているすべてを投げ入れたからだ」とイエスはその理由を述べている。他の人たちは、「彼らに溢れているものから」投げたのだが、やもめは「彼女の欠乏から」投げたのだとイエスは言う。他の人たちは溢れているから多くを投げることができるというわけである。やもめのように欠乏していたならば、他の人は投げ入れることなどしないであろうと見ているイエス。概ね人間というものはそうである。余っていれば献金しよう。募金しよう。必要な人にあげても良いと考える。やもめはそうではなかったとイエスは言う。「欠乏から」献金したというのである。それがレプタ二枚であった。

注釈が付けられているとおり、この銅貨は一枚では価値がない。二枚で使用できる額になる。それゆえにやもめは二枚入れざるを得ない。最小の金額であろうとも、使用可能なものを献げなければと思うがゆえであろう。一枚でも良いと考える者と、二枚でこそ使用可能なのだから二枚でなければ神に申し訳ないと考える者といるであろう。やもめは後者である。

神が彼女の境遇を欠乏の状態にしているのだとすれば、彼女は欠乏の中で自分が使用できるものを残して置いても良いであろう。しかし、二枚投げ入れるか、二枚取っておくかのどちらしかない。一枚ではいずれにしても使用不能なのだ。献金するかしないかの二者択一の中で、彼女は献金した。それは賭けのようなものである。何もなくなるのであれば、すべてを神に委ねるしかない。彼女はすべてを神に委ねて、後のことは神が良しとしてくださると信頼した。彼女は神への信頼において、神の真実に賭けたと言えるであろう。彼女自身が欠乏の状態にありながらも神の恵みを信頼して、賭けることができるということこそ信仰である。これを行わせるのは、神の与え給う信仰の力である。

彼女は献金をしなくても良かったのではないのか。まず自分の生活を確保してから、余ったら献金すれば良かったのではないのか。余剰が出たときに献金すれば良かったのではないか。それなのに、どうして彼女は自分の生活を確保するよりも神に献げることを選択したのか。この選択は、彼女自身から出てきたものではない。神への信頼が彼女に選択させたのである。すべてを無くしても神に信頼することを選択させたのは神が与え給うた信仰である。神への信頼は、神を第一とする。まず神のために収入の中から取り分けておくのが神への献げ物である。まず自分のために取り分けておいて、残りを神に献げるのではない。神を第一としない献げ物は、交換条件でしかない。神との取引である。それは賭けではないし、信仰でもない。賭けと言ったのは、何の保証もないところで神に献げ、神にすべてを期待する在り方のことである。もちろん、ここで言う賭けとは、見返りを求めたり、期待したり、あわよくばという思いを持っているということではない。すべてを投げ出すこと、すべてを神に委ねること、すべてを神の中に投げ入れることである。それゆえに、イエスが言う「生活費全部」と訳されている言葉は原意では「生全部」という意味である。やもめは自分の生のすべてを神のうちに投げ入れた。一般的な賭けと違うことは言うまでも無い。

彼女にこのような投げ入れを起こさせたのが信仰であるならば、投げ入れることができない人は信仰がないということであろうか。確かに、信仰が少ないのである。その人の中で、信仰がすべてとはなっていない。わたしがほとんどであり、信仰は少しだけというのが、我々自身の姿である。キリスト者だからすべてを投げ入れるというわけではない。少しだけキリスト者、ほとんどはこの世というのが我々なのである。このやもめ自身のように生きるのは困難である。神に賭けても、見返りを期待する。これだけ献げたのだから、もっと恵みを注いでくれても良いのにと思う。何もなくなっても、神さまがいてくださればそれで十分とは行かない。このやもめは自分の境遇を神の所為にせず、神にすべてを献げて、委ねることがどうしてできたのであろうか。彼女自身と神との関係がその中心にある。

彼女は、わたしと神との関係だけを生きていた。他者と自分とを比較して、神に文句を言うことはなかった。それゆえに、一般的には「欠乏」と言われる状態にあっても、神が造ってくださったことに基づいて、生かされていることを感謝して生きていた。レプタ二枚で明日の食事ができるかどうかは分からないが、とにかく神に献げ物を差し出したいと、ここに来たのだ。彼女に何かが与えられるかどうかは問題ではなかった。彼女が神に献げることができることが喜びであった。神は最後の二枚を残しておいてくださった。この喜びに満たされているがゆえに、彼女は献げた、彼女の生すべてを。

彼女にとって、神との関係がすべてであった。人間たちとの関係は彼女を支えることはなかった。彼女の欠乏を見ても、多くの有り余るものを神に献げているのだから。持てる者が彼女を支える者ことはなかった。それでも、彼女は神に感謝した。人間たちが見捨てても、神だけがわたしを顧みてくださると信じていた。彼女の投げ入れた生のすべては、彼女の信頼する神に献げられた。欠乏にあっても神に信頼していたやもめ。人間に認められなくとも神に認められている自分を知っていたやもめ。神が与えた信仰が彼女を満たしていたやもめ。如何なることも彼女は神の恵みと受け取っていた。欠乏さえも神の恵み。苦難であろうと神の恵み。一人であろうと神の恵み。彼女のすべてが神の恵み。彼女の魂は神の恵みに支えられていた。

貧しいやもめの魂が信頼している神が彼女のすべてである。神が見捨てることはないと神にすべてを賭けて生きるやもめは、すべてが神のものであることを認めている。喜びも悲しみも、苦しみも平安も、光も闇も、正反対のものすべて、その両面を備えているすべてを神が造り給い、その中に自分を置いたことを認めている。神が造り給うたものがわたしを害することはないと信頼している。それゆえに、すべてを賭けて、何も期待することなく、すべてを享受しているやもめ。このような信仰が、レプタ二枚の献げ物に現れている。イエスは、彼女の信仰を認め、彼女の献げたものが彼女の生すべてであると宣言したのである。

このような彼女は、神にすべてを期待している。しかし、見返りを求めているわけではない。神のすべてに信頼しているということは、見返りを期待しているということではない。ただ神に信頼しているということである。神は見捨てたもうことはないと信頼しているのである。この信頼こそが彼女を生かし、支え、彼女の力となっている。神の与え給うた信仰が彼女を支え、守り、導いている。その信仰に満たされているやもめは、何ものも期待することなく、すべてを期待している。何ものも留保することなく、すべてを持っている。神のうちにすべてを持っている。彼女には何もないがすべてがある。すべてがあるが自分のものではない。神のものである。

やもめの信仰は、イエスがご覧になったとおり、すべてを神に投げ入れる信仰であった。そこにご自身の十字架の姿を認めたイエス。イエスご自身があの十字架の上で、神にすべてを投げ入れたお方。神のうちにすべてを持っていると、十字架の死を引き受けたお方。死を通しても、失われることはないと神に信頼したお方。神にすべてを賭けたお方。このお方が神を仰ぐ眼差しがやもめの上に注がれている。この眼差しの中で、やもめはすべてを受け取っている。我々の上にも、イエスの眼差しは注がれている。ご自身のすべてを神に差し出し給うお方は、我々をその信仰のうちに生かし給う。キリストの体と血に与って、キリストの十字架の姿と一つにされ、キリストのすべてを生きて行こう。あなたはすべてを神に期待することができる信仰を与えられているのだから。

祈ります。

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