「単数にして複数」

2018年11月25日(聖霊降臨後最終主日)

マルコによる福音書13章24節~31節

 

「彼は近くいる、戸口たちの上に」とイエスは言う。彼は単数である。戸口たちは複数である。単数の彼が複数の戸口たちの上にいることができるのだろうか。どのようにして可能なのか。彼は複数に分かれているのか。彼が瞬間的に移動してすべての戸口にいるのであろうか。この言葉に続いて、イエスは言う。「わたしの言葉たちは過ぎ行かない」と。ここでイエスは「わたしの」と単数で語りながら、「言葉たち」と複数で語っている。イエスが語ったさまざまな言葉たちがあるという意味だと思える。しかし、イエスの言葉たちはイエスが語ったということにおいて複数の人間たちに届く言葉である。一つの言葉を語れば、複数の人間が聞く。イエスが一つの言葉しか語らなかったとしても、聞く人間は複数存在する。イエスの言葉を聞いている存在は複数なのである。それゆえに、イエスの言葉は単数にして複数である。

弟子たちには直接的に語った言葉がある。我々には書き記された言葉として、間接的に語った言葉がある。その言葉が一つの言葉であっても、複数の人間が聞いている。イエスの言葉は単数にして複数である。それゆえに、過ぎ行くことはない。なぜなら、誰かの心に記されているイエスの言葉が再び語られ、記されれば、過ぎ行くことなく語り続けるからである。

イエスの言葉は過ぎ行かないと語られている。「過ぎ行く」という言葉は「通り過ぎる」ことを意味し、通り過ぎて帰らないことを意味する。それゆえに「滅びる」と訳されている。「過ぎ行く」という言葉が表しているのは留まることのない、朽ちるべき物質や言葉である。多くの文学が執筆され、多くの哲学が書き残されている。そのような言葉は終わりの日には残ることはなく、過ぎ行くものであるとイエスは言う。朽ちて、役に立たなくなるということである。それを「時代」とイエスは言う。

「時代」という言葉は、ゲネアというギリシア語で「世代」を意味する。家長が息子に権威を譲るまでの期間を表す言葉である。父から子までが一世代。一世代は一つの時代であり、世代が変わることで時代も変わる。一世代が終われば、新しい時代になり、古い時代は朽ちて、過ぎ行く。「この時代は決して滅びない」と言うが、それは「これらのことが起こるまでは」という期限付きである。期限が来たならば、新しい世代に交代して、新しい時代が来たるということである。

では、天地が滅びる、過ぎ行くとはどういうことであろうか。天地を造られたのが神であれば、滅びるはずはないと思ってしまう。ところが、イエスは天地が過ぎ行くと言う。それに反して、「わたしの言葉たちは過ぎ行かない」と言う。これはどういうことであろうか。父なる神が創造した天地の世界が過ぎ行き、イエスの言葉に従う世界だけが過ぎ行かないということであろうか。そうであれば、父なる神の支配しておられるこの天地の世界が終わりを迎え、子なるキリストの世界が現れるということであろうか。子なるキリストの世界は、キリストの言葉たちに生かされる世界。イエスのロゴスたちが支えている世界だということである。父なる神から子なるキリストに権威が受け継がれ、世代が変わる。時代が変わる。世界が変わる。それが終わりの日。人の子の来臨の日なのである。そのときには、選ばれた者たちが集められる、天使たちによって。天使たちはイエスの言葉をもって呼び集めるであろう。天使たちは戸口たちに近づく。近づいて、イエスの言葉を語り、選ばれた者たちはイエスの言葉に信頼して、集められる。それが人の子の来臨の日、終わりの日である。

イエスは、終わりの日をイチジクの葉の繁る様にたとえている。それは天地の世界が繁栄を謳歌するときであろうか。繁栄を謳歌しているそのときに、人の子は来たるとイエスは言うのである。繁栄を謳歌しているとき、すべてがうまく行っていると人間たちが有頂天になっているとき、そのとき人の子は来たるのである。太陽が暗くなり、月が光を放たず、星が天から落ち、神の力によって保たれている天体が揺り動かされるとき。それは人間の力が最大になっているときである。人間が自分たちの力でできないことはないと思い上がっているとき。そのとき、人の子は来たるとイエスは言うのである。

我々が思い上がるときは常にある。ことがうまく運び始めると思い上がるのが人間である。自分にできないことは何もないと思い上がる。しかし、そのときこそ我々の危機のときである。危機は困難なときではない。むしろ、困難がないと思えるときである。そのとき、我々は危機に陥っているとは思わず、有頂天になっている。それゆえに、危機であるということを忘れてはならないのだ。イエスがイチジクの木が柔らかくなり、葉が伸びると形容しているのは、思い上がりのときである。イエスはかつて葉が生い茂っているイチジクの木を見て、実がなっていないかと近づいた。そして、葉っぱしか見出さなかったため、イチジクの木を呪ったということがあった。イチジクの木が自分の姿をこれ見よがしに現しているとき、イチジクの季節ではないにも関わらず、大きく見せているとき。それは、自分を見せることしか考えていない人間の姿を現していると言える。イエスがここでもイチジクの木からたとえを学べとおっしゃるのは、イエスが呪ったイチジクの木のたとえということであろう。

我々人間の思い上がりが頂点に達して、葉っぱだけで誰にも実を供給することがないとき。自分のためだけにすべてを留保しているとき。自分の力を誇示し、すべてはうまく行っていると思い上がるとき。そのときこそ、人の子が来たるときであるとイエスは言うのである。それゆえに、我々は思い上がることなく、常に謙虚に、自らを低くする生き方が必要なのである。それが信仰の生き方、キリスト者の生、イエスの言葉がもたらす生である。

イエスは多くの群衆が集まってきたときも、いずれ見捨てられるであろうときを予見していた。弟子たちさえも自分を見捨てる時が来たると予見していた。山上の変容の後にも、人の子は多くの受難を経験すると弟子たちに述べていた。それは聖書に書いてあることだと。聖書に書いてあるとおりに、イエスは受難する。多くの群衆がいて、受け入れられたかに思えてもなお、見捨てられ、多くの受難を経験する。これがイエスの従う神の道である。

イエスは常に受難を予告してきた。弟子たちは聞きたくなかった。聞かないとしてもイエスの受難は生じる。同じように、この世の世代交代のときにも受難は生じる。弟子たちもキリスト者たちも受難するであろう。しかし、イエスの言葉をもって天使たちが戸口に来たるとき、イエスの言葉に信頼する者たちは天使に従い、集められるであろう。人間たちの力が頂点に達するとき、キリストのものである者たちは自分の力に酔うこと無く、イエスの言葉に信頼する。イエスの言葉たちが彼らを支える。イエスの言葉たちが彼らのいのちとなる。耐え忍ぶ力となる。イエスの言葉たちは、その言葉を受け入れる一人ひとりをイエスのものとして守るであろう。イエスの言葉に信頼する者はうろたえることなく、揺さぶられることなく、ただイエスの言葉に固着する。イエスの言葉が過ぎ行かないがゆえに、その人も過ぎ行かない。イエスの言葉のうちに保たれ、イエスの言葉がその人を導く。イエスと共に、新しい世代へと進んでいくであろう。これが終わりの日の出来事である。

新しい世界は、この世の終わりを越えて続くイエスの言葉によって生じる世界である。過ぎ行かないイエスの言葉は、我々の魂を捉え、我々の魂と一つとなって、信仰に生きる者としてくださる。我々キリスト者はイエスの言葉によってキリスト者である。我々がキリスト者となるのではない。イエスの言葉が我々をキリスト者とするのだ。永遠に過ぎ行かないイエスの言葉を聞き続ける者は、終わりの日にも動揺することはない。単数にして複数のイエス言葉があなたを救われる者としてくださる。イエスの言葉があなたを守ってくださるように、終わりの日に至るまで、あなたの魂と一つとなって。

祈ります。

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