「感応する喜び」

2018年12月2日(待降節第1主日)

ルカによる福音書19章28節~40節

 

「大きな声で神を讃美し始めた」弟子たちのおびただしい群れ。その声には、羊飼いたちに現れた天使たちと天の軍勢の讃美が反映している。羊飼いたちに現れたとき、天使たちはこう讃美していた。「栄光、いと高きところにおいて、神に。地の上に平和、神が喜び給う人間たちにおいて」と。この讃美が歌っている事柄は、イエス誕生の夜に羊飼いたちに起こっただけではなく、将来起こるべき天と地の喜びが歌われている。この讃美に呼応するかのように、エルサレムに向かう下り坂のところで、弟子たちのおびただしい群れは大声を上げた。その讃美は天におけることだけを歌っている。「褒め讃えられよ、来たるべき方、主の御名における王。天において、平和。いと高きところにおいて、栄光。」

主イエスの誕生の夜、天使たちが預言した未来は、「地における平和」だったのに、ここエルサレムの途上においては「天における平和」となっている。どうしてなのか。イエスがこれから十字架に架かるからである。地には平和どころか、騒乱が、混乱が生じようとしている。それゆえに、「地における平和」とは歌われない。しかし、「天における平和。いと高きところにおける栄光」が失われないということが大事なことなのである。

この弟子たちの群れの大声の讃美は、「神喜び給う」人間たちにおける讃美として生まれた。イエスの十字架が差し迫っているとしても、神喜び給う人たちが神を讃美することにおいて、神の喜びは彼らを支配している。支配されているがゆえに、彼らは喜び、讃美し、栄光を仰いでいる。ここで神を讃美しているのは、神の喜びに感応した人間たちの喜びである。神が喜ぶ人たちのうちに神の喜びが溢れ、神を讃美することへと流れ出す。大きな声が流れ出す。これが神の溢れさせる讃美。神に感応する喜びである。

このような喜びは我知らず溢れる。溢れるがゆえに、誰も止めることができない。ファリサイ派の人たちがこの讃美を止めるようにイエスに求めたが、イエスはこれを否定した。なぜなら、神の喜びが彼らを喜ばせているからである。彼らを止めたとしても、「石たちが叫ぶであろう」とイエスは言う。石は叫ぶことはない。自分を持ってはいない。自分を持つことのない石が叫ぶであろうとイエスは言う。ということは、弟子たちの群れが大声で讃美している喜びは彼らから生まれたものではないと言っているのだ。

かつて、洗礼者ヨハネもこう言っていた。「これらの石たちから、アブラハムの子らを起こすことが可能である、神は」と。石たちが無機物であり、自分を持たないとしても、神はその石たちから起こすことができる、アブラハムの子らという自分を持った存在をと、ヨハネは語っていた。石という表象で表されている、どこにでもあるものからアブラハムの子らという特別な存在、選ばれた存在を起こすことができるとヨハネは語った。ということは、神が選び給うことにおいて、どこにでもある存在が特別な存在とされるわけである。従って、特別な存在はそれ自体で特別であるわけではない。神が起こしたということにおいて特別なのであり、自分を持つことができるわけである。自分を持っていない石でさえも自分を持つ特別な存在とされるということである。これが神の力であるならば、ここでイエスが答える「石たちが叫ぶであろう」という言葉が語っているのも神の力であり、弟子の群れの大声の叫びも神の力によって起こっているのだ。神の力デュナミスは、人間的に不可能なことを可能とする力である。神が語り給う言葉は、語られたことを成し遂げる言葉である。その言葉が弟子の群れのうちに起こした喜びが溢れ出して、讃美となっているとイエスは言うのである。

さらに、イエスは「もし彼らが沈黙しても、石たちが叫ぶであろう」と言う。沈黙する未来が来たとしても、石たちが叫ぶであろう未来が現れると言う。弟子たちの群れが沈黙したならば、彼らを叫ばせていた喜びは石を叫ばせる喜びとなるであろうとイエスは言うのである。つまり、弟子たちを喜ばせている神の喜びは消えることがないのである。外面的には、弟子たちの口から讃美が消え、喜びが消えるであろう。しかし、彼らを喜ばせていた根源である神の喜びは消えることがなく、石を叫ばせる喜びとなるのだとイエスは言うのだ。弟子たちは、自分が生み出したり、なくしたりする喜びを喜んでいるのではないのだ。神が起こし給う喜びを喜んでいるのだ。このような喜びが真実の喜びである。

我々が喜ぶとき、我知らずではなく、うれしいことをうれしいと認識して喜ぶものである。喜びの認識がない喜びとはいったい喜びなのだろうかと思うであろう。うれしかったことを思い出して笑うこともある。楽しいときに喜ぶこともある。我々の喜びや笑いは、自分自身の意識的な反応である。ところが、ここで弟子たちの群れが叫ぶ讃美も喜びも、意識的なものではないがゆえに、「石たちが叫ぶであろう」未来をイエスは語ることができるのだ。

意識的ではない喜び、意識的ではない讃美は、うれしいと感じることではない。喜びと意識することでもない。ただ与えられた喜び、与えられた讃美なのだ。この与えられるという出来事こそが神の出来事である。受け取ろうとせず受け取っているのが神の出来事である。

我々人間が生まれるときも生まれようとして生まれる者はいない。死ぬときも死のうとして死ぬ者はいない。生も死もただ受け取るものである。無意識的に受け取るものである。受け取りたいときに受け取るものではない。受け取りたくないと受け取らないものでもない。神から受け取ることと受け取らないことは必然的にそうなっているだけである。ここで叫ぶ弟子の群れも必然的に叫び、喜んでいる。このときに叫ぶ必然があったのだ。それだけが神の出来事である。

神の必然に素直に従わない者が、意識的に止めようとする。それがファリサイ派の人たちである。もちろん、弟子の群れも彼らが見た神の可能とする力ある出来事について大声を出している。この大声は叫ばざるを得ないような叫びである。それが素晴らしいとかうれしいというような意識的なものではない。叫びはうめきと同じように、叫ばざるを得ないとき、うめかざるを得ないときに出てくるものである。弟子の群れはそのように叫んでいる。従って、神の出来事に感応した叫び、感応した喜びである。このような喜びは失われることなく、止められてもなお、溢れてくるものである。

この叫び、喜びが「オリーブ山の下りのところで」起こったと聖書は語っている。「下りのところで」とは頂上から見下ろすところである。しかし、下るという下降の始まりでもある。エルサレム全体を見下ろしつつ、下るところで起こった叫び。この場所が指し示しているのは十字架である。十字架はこの世のすべてを見下ろしつつ、最底辺のところに立つことである。弟子の群れは我知らず、十字架を喜び、大声で叫ぶ。彼らのうちに起こった必然的叫び、必然的喜びは十字架を予見する喜びであり、叫びである。十字架が神の可能とする力によって生じることを予見する喜び、叫びなのだ。

主の名における王、来たるべき方は、十字架の主イエスである。アドベントの期節。このお方の降り給うクリスマスを待ち望みながら、十字架を仰いで進み行こう。イエスは降り給うことにおいて、喜びを起こし給う。降り給うことにおいて、叫びを起こし給う。褒め讃えられる方、来たるべき方は、我々のうちに喜びを与え給うお方。我々が讃美する讃美は神が起こし給う讃美。あなたのうちに起こされた喜びは決して失われない喜び。十字架の主が起こし給う喜びである。

主イエスは、我々がご自身の喜びに与るために、ご自身の体と血を与えてくださる。このお方の体と血に与る者は、喜ばざるを得ない喜びに与る。消えることのない喜びに与る。キリストの体と血があなたのうちにあって、喜びと叫びとを働き生み出し給う。待降節の日々を喜びに満たされて、歩いて行こう。主が来られるときまで。

祈ります。

Comments are closed.