「書字と語り」

2018年12月9日(待降節第2主日)
ルカによる福音書3章1節~6節

「ザカリアの息子ヨハネの上に、神の語られた言葉が生じた、荒野の中で」と記されている。神の語られた言葉が生じるとはどういうことであろうか。その言葉はどこで語られた言葉なのだろうか。ルカは「イザヤの言葉たちの書の中で」と続けて記している。イザヤの言葉たちの書とはイザヤ書のことであるが、イザヤの言葉たちとは、イザヤの上に生じた神の言葉たちである。その言葉たちは、神がイザヤに語ることにおいて記された言葉である。記された言葉が再び「神の語られた言葉」としてヨハネの上に生じたと記されている。語られた言葉が記されて書字となり、書字が再びヨハネの上に「語られた言葉」として生じた。神の語りかけがヨハネの上に直接的に生じたというよりも、イザヤの言葉たちの書を通して語られていた言葉がヨハネの上に生じたということである。
神の言葉は書き留められて書字となり、書字となった言葉が語りとなって生じる。それはイザヤの言葉たちの文字が語りの声として聞こえてきたということである。文字は語りを書として記す記号のようでありながら、語りを再活性化するものである。イザヤも神の語りによって、自らのうちに書き記された神の言葉を神の語りとして語った。イザヤが書き記したイザヤの書は、神が彼のうちに書き記した神の言葉であった。もちろん、イザヤの言葉たちの書ができるためには、弟子たちが聞いたイザヤの言葉たちの書字が必要であった。これらの書字を後の人間たちが読むことにより、書字は神の語りかけを再活性化する媒体となる。神の言葉は我々後の人間たちにも神の語りかけとして聞こえてくる神の声である。
ヨハネに生じた神の語られた言葉も、ヨハネに聞こえてきた神の声である。この声が語っているとおりに、ヨハネは主の道を整えた。ヨハネ自身の働きは、ヨハネの上に生じた神の言葉が現実の中に働き生み出したものであった。神の声は書き記された書字を通して語りとなり、現実の中に響く声となる。その声を聞いたヨハネはその声に従って働かざるを得ない者とされた。それがヨハネの上に生じた神の語られた言葉の力であり、声の力である。書字と語りが声となる。声となった時点で、消えていく。しかし、ヨハネのうちに語られた言葉が記される。書字と語りがヨハネのうちに幾度でも声として再活性化され、ヨハネの生涯を規定する声となる。
ヨハネは神の語られた言葉を幾度も聞く。幾度も声を聞く。声に従って、ヨハネは宣教する。人々の心のうちに神の語られた言葉を書き記すように宣教する。罪の赦しへの悔い改めの洗礼を宣教する。ヨハネの働きは純粋には宣教であって洗礼を施すことではない。宣教は、ヨハネ自身が促された声を伝えることであり、神の声の宣教である。いや、ヨハネ自身を通して、神の声が響くこと、それがヨハネの宣教なのである。この声は、この世の始まりから聞こえていた神の存在の声である。
創世記3章においてアダムとエヴァが罪を犯した後、神の声が聞こえてきたと8節に記されている。新共同訳も新しい聖書協会共同訳も主なる神が「歩く音」と訳しているが、この言葉コール・ヤーウェはヤーウェの声である。「歩く神ヤーウェの声を彼らは聞いた」と記されているのである。歩く音ではなく、歩く声なのである。この声を聞いたがゆえに、アダムとエヴァは園の木の間に隠れた。
声は語りかける相手を求めている。アダムとエヴァは語りかける声として足音を聞いた。それは単なる足音ではなく、神ヤーウェの存在の声であった。その声を聞いた彼らは恐ろしくなった。ヤーウェの意志に背いたことを自覚していたからである。彼らは自らの存在が罪に陥ったことを知り、善なる存在の声を聞いて、恐れた。以来、神の声、神の存在の声は至る所に聞こえている。我々は神の存在の声を聞くとき、自らの罪を想起し、裁かれるべき存在として恐れを感じる。「無自覚に」であろうとも恐れを感じているのが我々人間なのである。我々人間は存在していること自体において、自らの罪を自らに語っている。これは自らに語る自らの声である。
しかし、この声は声であるがゆえに、すぐに消えていく。聞こえてきてもすぐに忘れ、聞かなかったことにしてしまう。日常を生きることで、聞いた声を忘れようとする。聞いた声に従わず、聞かなかったように生きていれば、聞いた声はすぐに消えていくことを知っているからである。こうして、我々は隠れた神の声を消していく。自らの心からも消して行く。神が声を持って書き記した語られた言葉を消して行く。こうして、アダムとエヴァの時代から、我々人間は神の声を消し続けてきた。
この神の声はヨハネにおいて復活し、再活性化した。そして、ヨハネも声のようにすぐに消えていった。イエス・キリストも声のようにすぐに消えていった。一瞬我慢すれば、声は消える。しかし、我々の魂に書き記された神の書字は幾度も復活し、我々のうちに活性化される。神の声、神の語りを魂に書き記された存在が、その声を無視できないと認めたとき、我々はキリスト者とされる。キリスト者は神の声を幾度も聞き、神の語りの中ではぐくまれていく。キリスト者のうちにキリストの声が、神の声が書き記されている。使徒パウロが言う「キリストが形作られる」とは、書き記されて永遠の書字となったキリストなのである。キリスト者はキリストの声を聞く。キリストの声が日々活性化され、我々に語りかける。キリストの声を聴き続け、動かされていく存在がキリスト者である。
イザヤに声として生じた神の言葉は、ヨハネにも生じ、我々にも生じる。神の声を聞く者は、ヤーウェの道を整える。まっすぐに神に向かって歩む。すべての者と同じ地平に立って歩む。すべての肉なる存在と共に罪人であるわたしも神の救いを見ると信じて歩む。この歩みを実現し給うのは、神の声、神ご自身。キリストを遣わし給うた神ご自身が救いであるキリストを見せてくださる。その声を我々の上に響かせ、語られた言葉を実現し給うのは神である。
声から隠れ、声を消し続けてきた我々人間は、声を聞くことがないようにと生きてきた。自分の心で聞くことがないようにと消し続けてきた。その我々の心を開き給うのはキリストである。キリストが我々をして神の声を聞く者としてくださる。神はそのために、キリストを生まれさせてくださった。ヨハネが聞いた声、ヨハネが従った声は、特別な存在でなくとも聞こえる声だと、キリストが来てくださった。これがクリスマスに生まれ給う嬰児である。
馬小屋の飼い葉桶に響いた嬰児の声は、あの十字架の上まで途絶えることなく響き続けた。いや、十字架で死んでもなお、響き続けている。今もなお、響き続けている声。キリストの声が、我々のうちに書き記されるために、キリストは声のように消えていった。書き記されるために消えていく声。ヨハネにも書き記され、我々にも書き記された神の声は、我々人間の救いの声。あなたに語りかける声は、書き記された書字を通して語りとなり、あなたの魂を目覚めさせてくださる。
キリストはそのために、人間の形を取って、我々の間に生きてくださった。声が消えることなく、書き記されるために、人間の形を取って宿り給うたキリスト。このお方は、神と共にあった言葉。初めにあった神の声、神の語りかけを再活性化させる神の言葉として生きておられたお方。
クリスマスは、神の言葉が声となって、我々の間で産声を上げるとき。産声を上げる神の言葉は声として我々を救う。我々のうちに宿り、促し、神の意志に従う道を歩ませてくださる。クリスマスを待ち望む待降節は、降り給う声に出会うとき。あなたを呼ぶ声に出会うとき。あなたの魂に記されている神の声が活性化されるとき。その声に耳を塞いではならない。その声を無視してはならない。あなたを愛し、あなたのためにすべてを献げてくださったお方の声をまっすぐに聞く者でありますように。神の声はあなたを求める神の愛の声。あなたの心に声を書き記すために生まれ給うキリストを待ち望みつつ歩み行こう。
祈ります。

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