「恵みを見出す」

2018年12月16日(待降節第3主日)

ルカによる福音書1章26節~38節

 

「恐れるな、マリア。あなたは恵みを見出した、神の前で」と天使は言う。「恵み」は「見出す」ものだと言う。恵みは恵みとして見出されるものであって、そこにあっても見出されなければ恵みとは思われないということである。しかし、マリアはどこに恵みを見出したのであろうか。「神の前で」と天使は言う。「神の前で」とは「神のそばで」ということであり、神が彼女のそばにおられることを見出したならば、彼女は神の前で「恵みを見出した」と言える。天使は最初にこう言っていた。「喜べ。恵まれてしまっている者。主はあなたと共に」と。それでも、マリアが神のそばにいるとどうして言えるのだろうか。そのようなことは何も記されていない。この言葉が「見出すであろう」という未来形であるならば、理解できなくはない。ところが過去形なのである。「あなたは恵みを見出した、神の前で」と天使が言うのであれば、マリアが神のそばにいると認識している必要がある。マリアにその認識があったとは言われていないように思える。しかし、マリアの最後の言葉にはこの認識がある。

「ご覧ください。わたしは主の女奴隷。あなたの語られた言葉に従って、わたしに出来事が生じますように」とマリアは最後に応えている。マリアは「主の女奴隷」と応えている。主なる神に仕える女奴隷であるという認識は、主なる神のそばにいるわたしという認識である。この言葉が素直に発せられたということは、マリアが主なる神のそばで仕えている者として生きていたことを証ししている。マリアの日常は主の女奴隷としての日常だったということである。主なる神の家に仕えている女奴隷であるわたしとしてマリアは生きていた。このマリアの生き方を神はご存知であり、天使はその神から遣わされてマリアに語った、「あなたは神のそばで恵みを見出した」と。ということは、マリアが神のそばで生きていたという過去において、マリアは恵みを見出していたのだ。すべては神の恵みであると見出していたのだ。それゆえに、この時点で彼女が恵みを見出したのではないし、この時点で神が彼女に恵みを与えたのでもない。恵みを見出し続けていた彼女自身の過去が「恵まれてしまっている」彼女を形作っているのだ。

マリアは自らの日常に働いている神の恵みを見出して生きていた。彼女の日常がいかに過酷な日常であろうとも、彼女には恵みを見出す目が開かれていた。マリアが「主の女奴隷」としての自己認識を持っていたがゆえに、神が語られた言葉はそのとおりになると彼女の人生において知っていたがゆえに、それゆえにこそ、マリアは選ばれたと言える。これまでもマリアが苦難をも恵みとしていただき、主の女奴隷として生きてきたがゆえに、主はマリアに与えた。さらなる恵みを与えた。しかし、この恵みは彼女自身の幸いではなく、彼女から生まれる子の幸いとしての恵みであった。

天使は、マリア自身が幸いになるとは言わない。ただ、彼女から生まれることになっている息子が将来、王となって神の国を支配し、その王国に終わりはないと預言されているだけである。マリアの将来は語られていない。それは当然である。マリアは「主の女奴隷」なのだから、主の御国の将来が保証されているならば、主の女奴隷もその御国で終わり無く主に仕えることになるからである。

マリアは王妃になるわけではない。もちろん、地上の王の母であれば、待遇も良くなることはあるであろう。奴隷女も王の子を産めば、王の母として厚遇される。マリアの幸いはそこにあるのだろうか。いや、マリアが最後に応えているように「主の女奴隷」として生きることの幸いが彼女の幸いなのである。たとえ王の母となったとしても彼女は「主の女奴隷」としての自己認識のうちに生きるであろう。彼女には常に「神のそばで」生きることが幸いなのだ。この認識こそが、我々を幸いにする。

自分に権力が与えられることを求め、自分の国を建てることを求め、自分がすべてを支配することを求める。このような人間こそが堕罪の姿を生きている。それは「恵みを見出した」マリアとは反対の姿。恵みを獲得しようとする姿。幸いを作り出そうとする姿。奴隷ではなく、王となろうとする姿。この堕罪は「見る」ことから始まった。

蛇に唆されたエヴァが善悪の知識の木を見たとき、こう記されている。「女は見た、その木は食べるに良いものと、そして、目に対して喜ばしいと。その木は、賢くなるように望ませていた。」と。エヴァは、その木を見ることにおいて、賢くなるように望まされた。彼女の見た感じでは、食べるに良く、目には喜ばしく見えた。エヴァは「見る」ことにおいて、惑わされ、誘われ、食べてしまった。蛇が唆したとは言え、善悪の知識の木までも彼女を唆した。エヴァが見た目に捕らわれたからである。神の語られた言葉に従わなかったのは、見ることにおいてであった。良さと喜ばしさを見せられて唆される。これが罪を犯した人間、アダムとエヴァの子孫である我々の姿である。もっと良くなりたい、もっと輝きたいと望むがゆえに、悪に染まっていく。神の支配を抜け出して、自分たちの国を造りたいと願うことが罪に唆された姿である。マリアは、反対にあくまで主の女奴隷として生きた。「あなたが語られた言葉に従って、わたしに出来事が生じますように」と生きた。これが神のそばで生きるということである。

マリアは今恵みを見出したのではないし、神は今マリアに恵みを与えたのでもない。神の出来事は常に恵みである。神の働きは常に善きものである。神のそばで生きる者にとっては、すべては善へと共働する。わたしにとって良いことではなく、神の世界にとって善きことを望むことが、神の奴隷として生きることである。わたしにとっての良いことだけを求めていては、わたしを滅ぼすことになるだけである。神の世界が善きことで満ち、善き方へと整えられていると信じて、従うことが我々神に造られた存在の在り方である。堕罪は、この神の世界を信じないことである。堕罪は、神の世界を正しく見ることがない。堕罪は、神の恵みを見出すことはない。自分の力を見出そうと努めている。自分の力を求めるところでは、神の恵みを見出す目は開かれていない。神のそば、神の前でこそ、神の恵みは見出される。マリアは、そのように生きていた。天使はマリアのありのままの姿を語った。「恐れるな、マリア。あなたは見出した、恵みを、神のそばで」と。

「マリア、あなたは、これまで生きてきたように、これからも恵みを見出して生きて行く、神のそばで」と天使は語ったのだ。それゆえに、「恐れるな」と言う。あなたは恐れる必要はない。今までも恐れなく生きていた。これからも恐れなく生きて行く。恵みはすでに見出されている、あなたの目に、あなたの魂に、あなたの心に、と天使は言うのだ。主の女奴隷として、謙虚に生きていたマリアだからこそ、これからも恵みを見出していくであろう。彼女自身の幸いを求めるのではなく、他者のために幸いを求め、他者のために生き、他者のために仕える。この道の上に、キリストの十字架は立っている。

あらゆることを引き受けて生きていたマリアであればこそ、引き受けるであろうと主なる神はマリアの胎に宿らせた、ご自身の御子を。その胎の御子がイエス・キリスト、十字架の主である。このお方が生まれ給うことは、このお方の将来へとつながっている。マリアが恵みとして見出した神の出来事を、イエスはその生涯を通して、宣教した、十字架の死に至るまで。我々の世界は神の世界、恵みの世界であると宣教した。恵みの世界は神の奴隷にこそ見える世界。恵みの世界は神の主権の許で実現する世界。恵みの世界は力ある神の言葉が造り出す世界。この世界が開かれるために、キリストは生まれ給う。パンの家という名を持つ村ベツレヘムの馬小屋に生まれ給う。いのちのパンとして生まれ給うキリストをいただく聖餐を通して、我々のうちにキリストをお迎えしよう。神の言に従ういのちを共に生きるために、キリストをお迎えしよう。お迎えして、恵みを見出した者として生きて行こう。マリアと共に主の奴隷として主に仕えて行こう、神の国が実現するその日まで。

祈ります。

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