「隠された場所で」

2018年12月23日(待降節第4主日)

ルカによる福音書1章39節~45節

 

「あなたの胎の実は祝福されたもの」とエリサベトはマリアに言う。「わたしの胎の中で胎児が飛び跳ねた」からだと言う。マリアとエリサベトの二つの胎が語られ、胎の実である胎児ヨハネがイエスの存在に感応した様子が記されている。胎児の感応関係は胎児と胎をもつ母にしか分からない。胎は隠れているからである。

胎というギリシア語はコイリアと言う。この言葉は胎児を宿す胎やお腹を意味している。さらに、外側からは分からない隠された場所、人間の奥にある隠された場所を意味する。二人の胎児は隠されている存在。母のお腹の大きさに現れてくるとは言え、分かるのはそれだけである。胎児の動きは母には分かるが、他者には分からない。それにも関わらず、エリサベトは、マリアの胎の実をどうして認識したのであろうか。マリアの挨拶を聞いた瞬間、エリサベトの胎児が喜び飛び跳ねたからであると、エリサベトは言う。しかし、胎児が外部をどこまで知るのかは分からない。まして、エリサベトの外部にいるマリアの胎に隠されている胎児イエスを、エリサベトの胎にいるヨハネが知るのであろうか。それはどのようにして知るのであろうか。我々、外側にいる人間には分からないことである。

このヨハネのイエスに対する感応は、エリサベトの胎とマリアの胎とがつながっていることを表している。互いの隠された場所同士が隠された場所ということにおいてつながっている。外部に現れていないもの同士が現れていない世界に同じように生きているからである。聖書においては、この胎コイリアを魂と同じように考えることもある。我々人間の奥底に隠されている魂を表すヘブライ語メエーも同じように胎を意味する言葉である。

神ヤーウェは創世記15章4節でアブラムに言ったことがある。「あなたの胎から出る者があなたを継ぐ」と。男であるアブラムに胎はない。しかし、その奥底に隠されている魂という胎はある。魂という胎から生まれ出る者がアブラムの跡を継ぐと言われていたのだ。それは血肉のつながりではなく、魂のつながりによる跡継ぎのことであった。このように胎という言葉が指し示しているのは、魂であり、人間の奥深くに隠された場所なのである。そこに、その人自身の魂があり、その人自身を生きている。胎は、単に胎児を宿すというに留まらず、魂の宿であり、魂そのものは同じ胎によってつながっているのである。隠された場所は地下水脈のような場所だと言えるであろう。

このコイリア、胎において、胎児たちは守られ、つながっている。もちろん、すべての胎がつながっているのかどうか分からないが、少なくともマリアとエリサベトの胎は、一つの信仰における魂の宿りとしてつながっていた。信仰における魂の宿りがつながっているがゆえに、エリサベトはこう言ったのだ。「主から彼女に語られたことたちに完成があるだろうと信じた人は幸い」と。

エリサベトはマリアの信仰を知っていた。「主から語られたことたちに完成があると信じた」マリアの信仰を知っていた。エリサベトも同じ信仰に生きていたからである。エリサベトの魂の宿りである胎は、マリアと同じ信仰をはぐくむ胎。ヨハネをはぐくむ胎。ヨハネを信仰者としてはぐくむ胎。エリサベトの魂も隠された場所においてはぐくまれた。マリアの魂も隠された場所においてはぐくまれた。それゆえにマリアは、天使が語った言葉に従って「わたしに出来事が生じますように」と応えたのであった。

自らに出来事が生じることは、天使が語った言葉に従ってであると信じたマリア。彼女の信仰においては、出来事は神の語られた言葉に従って生じるものであった。エリサベトも同じ信仰に従って生きていた。それゆえに、二つの胎は二人の女たちの信仰の胎であり、一つの信仰をはぐくむ胎であった。その胎にはぐくまれている胎児たちは、一つの信仰において守られている。彼らが互いに感応するのは当然である。いや、隠された場所を支配しているのはマリアの胎に宿るイエス。隠された場所にはぐくまれているのはエリサベトの胎に宿るヨハネ。イエスの支配する隠された場所で、イエスの前に出たヨハネが喜び飛び跳ねた。これが隠された場所である胎において起こった出来事だった。それゆえに、エリサベトはこう語っている。「わたしの主の母が来たるというこのことがわたしに(起こった)、そこから」と。この「そこから」とはマリアの祝福された胎からという意味である。つまり、マリアの祝福された胎を支配している主がおられて、わたしの胎も支配されている。それゆえに、わたしの主の母が来たるということが生じた、とエリサベトは語ったのだ。

エリサベトの信仰は、マリアの信仰と一つである。マリアは神の語られた言葉に従って、出来事が生じることを信じ、自らを神に委ねている。神の奴隷として生きている。エリサベトも神の奴隷として生きている。互いに、自分たちを支配し、守り、導いておられるのは神ヤーウェであると信じている。二人の胎は信仰の胎。二人の胎は神に支配されている胎。神が用い給う胎。隠された場所である胎において、ヨハネは自分の主に出会い、飛び跳ね、喜んだ。それを感じたのはエリサベト。それを支配しているのは、マリアの胎の実、イエス・キリスト。親戚である二人の女性たちが出会っただけに留まらない出会いがここにあった。神の語られた言葉の完成に向かう道を宣教するであろうヨハネと、その道を完成させ給うイエスの出会いがあった。

「主から彼女に語られたことたちに完成があるだろうと信じた」幸いを生きるマリアをエリサベトは祝福する。完成があるということは、終わりがあるということであり、行き着くべきところに行き着くということである。しかし、そこに至るまでには、すべてのことを通らなければならない。通るべきところをとおり、経験すべきことを経験し、受けるべきものを受けなければならない。「完成」という言葉テレイオーシスとは、終極に達することである。すべてを経て達すべき終極に達することが「完成」である。

完成への道、終極への道には、ヨハネの受難があり、イエスの受難がある。苦難を避けていては完成である終極に達することはない。エリサベトの胎に宿ったヨハネの魂は、終極に至る道を支配し給う主イエスを知って、喜び飛び跳ねたのだ。自分が一人ではないと喜び飛び跳ねた。ヨハネが被らねばならない苦難を引き受けていく力を与えるのは主であるイエスだからである。イエスがヨハネの主として、受難する力を与えるであろう。エリサベトの胎に宿るヨハネは、このイエスの力に感応し、喜び飛び跳ねた。母の胎を出て、生きて行くべき道を主が支配しておられると知って、喜び飛び跳ねたのだ。

我々キリスト者は、自分の力ではなく、神の力によって生きる者である。我々キリスト者にも苦難はある。イエスがおっしゃったとおり、この世には必ず苦難がある。キリスト者であることはこの苦難を引き受けることである。苦難を引き受けるとき苦難は受難となり、キリストの十字架と復活に与る神の御業となる。それがキリスト者として生きること、イエスが主であると信じて生きることである。イエスは、我々の隠された場所に孕まれている我々の魂を支配し給う。このお方が宿り給うたマリアの胎は、祝福された胎。聖なる胎。神が支配し給う世界を統括する胎。

待降節第4主日を迎えた我々は、マリアの聖なる胎に宿ったイエス・キリストという胎の実が我々を支配し、終極に達するまで導いてくださることを信じて、歩み行こう。マリアとエリサベトの信仰に励まされ、我々の魂を支配してくださる主イエスを喜び迎えよう。エリサベトの胎に宿るヨハネと共に、喜び飛び跳ねよう。

あなたを喜ぶ者として形作り給うのは、イエス・キリスト。あなたの救い主。あなたを解放してくださるお方。喜びを素直に表す者へと造り替えてくださるお方。わたしの主を喜び迎えるクリスマスの日を望みつつ、共に祈り、備えていこう。

祈ります。

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