「闇の中のいのち」

2018年12月24日(クリスマス聖餐礼拝)

ヨハネによる福音書1章1節~14節

「言葉は肉として生じた。そして、我々のうちに宿った」。神に背いた肉の世界、闇の世界に生きる我々のうちに神の言葉が宿った。クリスマスは神の言葉の宿り。ここで使われている言葉はスケーノオーというギリシア語で「テントを張る」こと、「住まう」ことを意味する言葉である。肉として住まう神の言葉がキリストである。しかし、何故に肉となることが必要だったのであろうか。我々の世界、肉の世界が闇に包まれていたからである。闇に包まれていた我々の世界に光を与えるために、肉として生じたイエス・キリスト。このお方が光であるいのちをうちに持つ神の言葉だと言われている。その光は、真実の光だと言われている。真実の光とはどのような光なのか。時間にも空間にも支配されない光が真実の光である。

我々の世界にある光は方向性を持った光である。その光は一定の方向にのみ向かう。そのような光に照らされた反対側は闇となる。闇を造り出してしまう光は真実の光ではない。すべての人に光を与えるのが真実の光。光を与えることなく、闇を造り出す光は、光のように見えながら、光ではない。真実の光は闇を造り出すことなく、すべての人に光を与え、他者に光を与えるようないのちへと造り替える。

闇を造り出す光は、自分の栄光を求めている人間である。そのような人間は、自分が輝くことにおいて、自分のような人間を造り出してしまう。あの人のように輝いていたいと思わせる人間は、結局闇を造り出してしまう。真実の光は、この世では闇のように見えるであろう。キリストは他者が輝く力を与える。自らが闇に落ちることを引き受け、他者が輝く光を与える。神の言葉は、人間たちの光、他者に光を与えるいのちだと言われているとおりである。

反対に、闇は、他者を闇へと引きずり込む。わたしが輝きたいという思いを与える光は、実は闇である。地上の光が反対側に闇を造り出すように、妬みを起こし、競い合いを起こしてしまう。そこに喜びはない。あるのは、羨望と怒り、苛立ちと焦り。キリストは真実の光。喜んで光である自らを与え給う。「照らす」という言葉フォーティゾーは「光を与える」という意味だからである。キリストは自らが闇に包まれてもなお、他者に光を与え、与えられた人が誰かに光を与えるようないのちとしてくださる。真実の光、いのちの言葉、イエス・キリストはこのようなお方として、この世に降り給うた。

この世が闇であるのは、他者に光を与えず、自らに光を集めようとするからである。反対に、自らが他者に光を与え、闇に包まれるとき、自らは光として働いていることになる。真実の闇と真実の光は対照的である。闇に包まれても光であることができるということを真実の光であるキリストは示してくださる。それは、キリストが生まれ給うた夜、闇の中に沈んでいた羊飼いたちが、喜びをもって生きるようにされた出来事が語っていることである。

彼らは他者のために自らが闇の仕事を引き受けていた。人々から蔑まれる職業についていた羊飼いたちは、多くの人が寝ている時間に羊の群れの番をしていた。他者のために働いていた羊飼いたちに光が与えられた。彼らこそ、真実の光に照らされている存在であるとキリストは彼らを励ましたのだ。彼らは、羊飼いであることを止めたわけではない。羊飼いであることにおいて、他者に光を与える存在として生きる力をいただいた。それは、彼らが自らの働きを喜んで行うことにおいて実現した。彼らは真実にいのちを輝かせることができる者へと変えられた。馬小屋の飼い葉桶に生まれ給うたキリストが、彼らの救い主となったのは、そのような次第だった。

自らに与えられたいのちは他者に光を与えるいのちだと生きる存在において、「言葉のうちにいのちがあった」というみことばが実現している。飼い葉桶のイエスは、神の言葉としてのいのちを内包しつつ、羊飼いたちに語りかけた。彼らは、天使が告げた言葉のとおりの出来事を目撃して、神が語り給うたことが真実であったと受け取った。彼らは自分たちが闇に包まれていてもなお、いのちを生きることができると喜んだ。クリスマスは、このような存在を造り出す真実の光の出来事である。

闇に支配された世界では、闇の再生産が繰り返されていく。誰かのために闇に貶められたと感じた存在は、誰かを闇に陥れ、自らが輝くことを求めてしまう。妬みと争いが溢れていく。そのような世界は誰も輝くことができない。輝いているように見えて、闇を広げている世界である。キリストが生きた「父の独り子としての栄光」は反対の相にある。「恵みと真理に満ち溢れている」と言われているとおりである。「恵み」とは「与えること」であり、「真理」とは「隠れていないこと」である。「与える」という恵みに満ち、「隠れていない」という真理に満ちているキリストの栄光とはいったいどのようなものなのか。それは光を与えることにおいて輝き、隠れなく自らをありのままに生きている栄光である。それはあの十字架の栄光である。

十字架の上で、キリストは自らを隠すことができない。すべての人間に自らをさらしつつ、すべての人間に自らを与える。恵みと真理はあの十字架の上にある。神の栄光はあの十字架の上にある。闇に思える十字架こそが真実の光、神の言葉なのである。

今宵生まれ給うたキリストは、我々に光を与えるために生まれ給うた。誰も闇に落とされることなく、誰も自らを隠すことなく、誰もが与えるいのちを生きるようにと生まれ給うた。このお方こそ、我々に光を与え給うお方。ご自分が闇に沈んでもなお、我々に光を与え続けてくださるお方。このお方の真実によって、我々は救われる。我々のいのちがありのままに生きることができるようにと、ご自身を与えてくださるキリスト。クリスマスの主は、与える愛を広げるお方。与えられるものを求めるのではなく、与えることを喜び生きるいのちを回復してくださる。

我々のいのちは、本来与えるいのちであった。いつから、獲得するいのちになってしまったのだろうか。いつから、奪ういのちになってしまったのだろうか。いつから、自らが輝くことを求めるいのちになってしまったのだろうか。アダムとエヴァの堕罪からである。創造の初めには、神の言葉に従う存在であった我々人間は、罪を犯した後、神の意志を拒否し、自らの意志に従って生きるようになってしまった。自らの輝きを求める自らの意志が我々を動かすようになってしまった。それが闇の世界を造り出すとは思ってもいなかった。他者を貶め、他者の足を引っ張り、他者の利益を奪い、他者の喜びを妬む。そのような存在になってしまった我々人間のために、神は独り子を与え給うた。光である神の言葉を与え給うた。神の言葉が我々のうちにテントを張り、住まうようにしてくださった。我々のうちに宿るために、神の言葉は罪の肉の姿で地上に生まれ給うた。闇に包まれてもなお、あなたのうちにある光が輝くようにと、我々と同じ姿で生きてくださった。飼い葉桶に生まれ、十字架の死と復活に至るまで、神の言葉として生きてくださった。その生涯は、誕生から死に至るまで、闇のような生涯だった。地上的には闇に思える生涯であった。そのお方が独り子なる神、イエス・キリストである。

我々に光を与え、闇に沈み、闇を照らす光として生きてくださったキリスト。闇の中のいのちとして生きてくださったキリスト。このお方が、今日、あなたがたのために生まれ給うた。あなたがたが真実の光を受けて、他者に光を与える存在として喜び生きるようにと生まれてくださった。このお方の誕生を喜び迎えよう。あなたのうちに宿り給う真実の光を迎えよう。あなたが恵みと真理に満たされるために、ご自身を与えてくださるキリストの聖餐に共に与ろう。キリストの体と血があなたのいのちを回復してくださる。神に造られた原初のあなたを回復してくださる。神の言葉に純粋に従う存在へと造り替えてくださる。

今宵、生まれ給うたキリストのいのちに与り、キリストのように光を与える存在として生きて行こう。キリストがあなたに光を与えてくださるように。クリスマスおめでとうございます。

祈ります。

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