「奴隷解放」

2018年12月30日(降誕後主日)

ルカによる福音書2章25節~40節

 

「今、あなたは解放している、あなたの奴隷を、ご主人様」とシメオンは歌う。シメオンの讃歌と呼ばれる歌は、礼拝式文の最後に置かれて、我々は毎週歌う。この歌は奴隷を解放してくださるご主人様である神を褒め讃える歌である。この歌をシメオンに歌わしめたのは、嬰児イエスであった。嬰児イエスを腕に抱いたとき、シメオンは奴隷解放を讃美する。これはどういうことであろうか。嬰児イエスと奴隷解放とはどのような関係にあるのだろうか。

奴隷解放は、ただご主人の決断によって実現する。嬰児イエスを腕に受け取ったシメオンは、この主人の決断のみによって実現する奴隷解放を感じ取り、了解した。なぜなら、嬰児は自発的に誰かの腕に抱かれるなどということはできないからである。嬰児自身は、何も決断できない。実行もできない。胎から出た自分自身を受け入れてくれた母の判断を信頼しているだけである。その姿は信仰の姿と同じである。救いの道は、そのような神の主動によって実現すると、シメオンは感じ取り、神に感謝した。シメオンは、信仰の在り方を嬰児イエスから受け取った。嬰児イエスはシメオンを信仰の道へと導いた。何もできない嬰児が信仰を指し示している。それは聖霊に満たされた信仰の出来事としてシメオンに生じた。嬰児イエスが聖霊と共に、シメオンに渡された。マルティン・ルターが言う如く、神の言葉は聖霊と共に我々に来たる。聖霊が神の言葉を神の言葉として受け取らせる。嬰児イエスはシメオンに神の言葉、神の救いの出来事を受け取らしめた。嬰児イエスが神の言葉そのものである。聖霊と共に、嬰児イエスを受け入れたシメオンは、神の救いを受け入れた。

この救いは、あくまでご主人である神の独占活動としての救いである。人間が介在することはない。協力することもない。ただ神のみが活動する。それが救いなのである。シメオンはそのように神を讃美している。この救いは「備えられたもの」だとシメオンは歌っている。「備えられたもの」とは、すでにあるが、時が来なければ使用可能にはならないもののことである。もちろん、使用可能状態ですでにあるのだが、使用可能になるのは受け取る側の問題である。受け取る側が素直に受け取るとき、使用可能となるということである。これは神の出来事すべてに言えることである。

「異邦人の啓示への光」もまた同じである。新共同訳も聖書協会共同訳も「異邦人を照らす啓示の光」と訳している。原文は「異邦人の啓示への光」である。「異邦人の啓示」とは、異邦人が啓示を受けること、覆い隠されているものを啓き示されることである。光が向かっている方向が異邦人が啓示を受ける方向である。嬰児自身が、シメオンに指し示したのは、嬰児として、すべてを神に委ねている姿である。その姿が光として指し示している方向性である。人間が自らを解放するのではなく、自ら自由を獲得するのでもなく、主人のみが解放し給うという方向。啓示とは神が啓き示すことであるから、神の働きに素直に従うことで啓かれるということである。そこにあるにも関わらず覆われて隠されて見えないものが神によって啓き示される。この啓示は素直に受け取るしかない。ただそれだけなのだ。この素直な受け取りが可能となっているは異邦人だとシメオンは歌った。これがユダヤ人、イスラエルではないのは何故なのか。

シメオンは自らがユダヤ人、イスラエルであることで、見えなくなっていたものがようやく見えたと感じ取った。嬰児イエスを腕に受け取ったときに、啓示され、見えるようになった。それゆえに、自らが属するユダヤ人たちが見えなくなっている状態を了解し、異邦人の方が素直に受け取るであろうと歌った。しかし、その光は、神ヤーウェの民イスラエルの輝きとしての栄光なのだとも歌った。イスラエルの栄光は神ヤーウェの許にある。すでにあるものを素直に受け取るだけで十分なのに、あなたの民イスラエルは受け取ることができなかった。それゆえ、異邦人は素直に受け取り、救いに至るであろうとシメオンは歌う。その救いは「すべての民の顔に従って備えられたもの」だと言う。

すべての民族にはそれぞれの特徴的顔がある。その顔ごとに神は備え給うたのだ、救いを。救いは、それぞれの民族が素直に受け取ることができるように備えられている。しかし、素直ではないとき、受け取ることができない。イスラエルも同じ。ただ神の働きを受け取るだけで良いのに、自分で獲得する方向で生きるならば、受け取ることはできない。救いはつかもうとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちていく。そして、何も残らない。すでにあるのに、何もないように生きてしまう。それゆえに、シメオンは歌ったのだ、「あなたは解放している、あなたの奴隷を」と。

「あなたは解放している、あなたの奴隷を」という現在形は、解放している現在が今目の前にあるということである。今あるのに、今まで見えなかった。いや、見ようとしなったとシメオンは歌った。彼は、嬰児イエスを腕に受け取ったとき、見ようとしなかった自らを思い知らされた。嬰児イエスがシメオンの腕に信頼して安らったとき、平安を知った。これこそが真実の平和、シャロームだとシメオンは知った。この嬰児のようにすべてを任せている状態が平和、シャロームなのだと知ったのだ。シャロームのうちに置かれている状態が奴隷解放なのである。「今、あなたは解放している、あなたの奴隷を、ご主人様。あなたの語られた言葉に従って、平和のうちに」とシメオンは平和のうちに置かれていることを知った。平和とは置かれていることであって、人間が獲得することでもなければ、人間が打ち立てることでもない。神の平和、シャロームは神ご自身がシャロームであること、欠けの無いお方、完全なるお方であることに根拠がある。ご主人様である神がシャロームのうちに生きておられ、奴隷であるわたしをその家のうちにおいてくださっている。それがわたしの平和であり、奴隷解放である。これまで、ローマの支配から逃れようと、ローマと戦って自由を獲得しようと願ってきた。しかし、神ご自身がシャロームのうちにわたしを置いてくださっている限り、わたしはシャロームの中にいる。すでに解放された奴隷として、自由を生きているとシメオンは知った。この啓示をもたらした嬰児について、さらにシメオンは歌う。

イスラエルにおいて、多くのものの倒れることと起こされることへの徴として嬰児は置かれていると。さらに、反対を受ける徴としても置かれていると。シメオンが預言するとおり、嬰児イエスは倒れるものを起こすお方である。しかし、ご自分は反対を受けて十字架に架けられるお方である。それは徴としてのイエス。徴とは、本体を指し示す記号のようなものであり、本体ではないが本体と共にある。本体は神ご自身である。神ご自身を指し示し、神ご自身と共にある徴が嬰児イエス。十字架は十字架という現実だけを語っているのではない。十字架が指し示している神のいのち、神の意志、神の独占活動としての救いを語っている。それゆえに、見えている十字架の姿のみを見るのではなく、十字架の向こうにすでにある神の出来事、奴隷解放の出来事を見るのである。そのとき、我々はすでに救われているわたしを知る。すでにシャロームに包まれているわたしを知る。この信仰の道、信仰の在り方、信仰の今を嬰児イエスはシメオンに開いた。我々もまた、シメオンの出来事を通して、開かれていく、一人ひとりの信仰の道へと。

キリストは、ご自身の体と血をもって、我々に与えてくださる、本体である神ご自身の働き、独占活動としての神の救いを。我々はキリストの聖餐を通して、救いを素直に受け取る信仰を強くされる。「これはわたしの体である」、「これはわたしの血における新しい契約である」と語り給うイエスの言葉に従って、パンと葡萄酒を受ける者は、理性ではなく、信仰で受ける。素直に、神の言葉を受ける。神が、キリストが、おっしゃるのだからそうなのだと信頼して受ける。解放されている奴隷として、神の平和のうちに歩むことができる幸いを感謝して、いただこう、キリストの徴を。祈ります。

Comments are closed.