「無尽蔵」

2019年1月1日(新年礼拝)

ルカによる福音書12章22節~34節

 

「あなたがたは作りなさい、自分自身に、古びない財布を。尽きることなき宝の蔵を、天において」とイエスは言う。古びない財布とは、天における尽きることなき宝の蔵だと言う。古びない財布を作る、無尽蔵の宝の蔵を作る。それは、他者への憐れみの行為によって作られるのだとイエスはおっしゃっている。地上の財布ではないがゆえに、地上を離れて天に召されたときに使用できる財布なのであろうか。天上の生活において使用できる尽きない蔵なのであろうか。その蔵には何が入っているのだろうか。もちろん、宝が入っているのだが、地上的な宝、金銭的な宝ではない。それら地上的なものは、あなたがたに加えられるであろうとイエスはおっしゃる。それゆえに、地上的なものである必要な食糧や衣服は付加物であり、本質ではないとおっしゃっているのだ。その宝の蔵は神の国のことである。神の国こそが宝の蔵であり、永遠に尽きることなく我々にあらゆるものを供給してくださる無尽蔵なのである。無尽蔵の神の国を探せとイエスは言うのだ。

無尽蔵とは文字通り、尽きない蔵のことである。ギリシア語でも尽きない宝の蔵と記されている。これを「富」と訳してしまうと非常に狭いものになってしまう。ここで使われているテーサウロスという言葉は「宝」を意味し、宝を納めておく「蔵」をも意味する。古びない財布とおっしゃったことを別の言い方で言えば「尽きない宝の蔵」、無尽蔵なのだとイエスはおっしゃるのだ。天における古びない財布、尽きない宝の蔵、無尽蔵を作りなさいとイエスはおっしゃる。しかし、この蔵や財布は我々が作ることができるようなものなのであろうか。

天における財布や蔵は、神が造り給うものであろう。そうであれば、何故、イエスは「作りなさい」とおっしゃるのだろうか。それは、我々が物理的に財布や蔵を作るということではなく、心において作るということである。なぜなら、イエスは最後にこうおっしゃっているからである。「あなたがたの宝があるところに、あなたがたの心もまたあるのだから」と。イエスがおっしゃるのは富のことではない。宝のことなのである。宝とはいったい何か。富も含まれるであろうが、宝とは我々が大切にしているものであり、我々が依り頼んでいるものである。我々が依り頼んでいるものがあるところに、そこに我々の心もまたあるということは当たり前のことである。マルティン・ルターが言うように、わたしが依り頼んでいるものがわたしの神である。お金に依り頼んでいるならばお金が神である。人に依り頼んでいるなら人間が神である。それらを離れて、神に依り頼んでいるならば神を神としているのである。従って、イエスがおっしゃる宝とは我々が地上に積むことができない宝のことである。地上に作ることもできない財布や宝の蔵のことをイエスは語っておられる。それは「天において」あるのだ。天における蔵を我々が作ることはできない。しかし、神の国、神ご自身が我々の宝また宝の蔵であるならば、そのとき我々の心は天に置かれているのだから、我々は天に作っているのだ、宝の蔵を。それはわたしの心が依り頼んでいる大切な宝であり、わたしの心が現れているがゆえに、わたしは天に作っているのだ、財布を、宝の蔵を。それはわたしの心のイメージとしての財布であり、蔵である。このイメージは、古びないし、尽きることがない。わたしの心のうちにあるのだから。

それでも、わたしの心が失われれば、イメージは失われるのではないのか。そうである。わたしが心を失ってしまうとき、尽きない蔵も古びない財布のイメージも失われる、わたしの心から。ところが、この古びない財布、尽きない蔵は、神ご自身であり、神の国そのものなのだから、わたしの心が失われても失われないのだ、天における根源的イメージは。神ご自身が失われないのだから、神の国も失われず、尽きない蔵も古びない財布も失われない。永遠に天にある、神と共に。このイメージを作ることをイエスは求めておられる。

しかし、イメージを作るということは、我々が単に思い描くだけのように思える。それは机上の空論のように現実には何もできないものではないのか。ところが、イエスはこうおっしゃっている。「神の国を探しなさい。そうすれば、これらのものはあなたがたに加えられるであろう」と。ということは、神の国は探さなければ見出されないように隠されているのである。見出されたとき、地上的な食糧や衣服に代表される富も加えられると言われている。隠されているものが見出されたとき、今まで見えなかった神の国が見えるようになる。ないと思っていたものも見えるようになる。すでにあるものが見えるようになる。こうして、我々には必要なものが加えられるのだ。あるものがあるものとして見出されるとき、すべては神によって備えられていることが見える。それが神の国であり、天の尽きない蔵、無尽蔵なのである。

しかし、人は思う。本当に加えられるのだろうかと。加えられなかったら、食べるものもなくなるではないかと。目の前にないものを信じたり、探したりできるものではないと。確かに、信じるということは、目の前にないがゆえに信じるのである。あるものを信じるとは誰も言わない。見えないがゆえに信じると言うのである。そして、見えないがゆえに探せとイエスはおっしゃるのだ。探す人は、イエスの言葉を信じて、探す。イエスの言葉を信頼して、イエスご自身を信頼して、探す。何の保証もないが信じて探す。イエスがおっしゃったのだからと探す。これが信仰なのである。信仰は確認して信じるものではない。アンセルムスが言ったように、「知るために信じる」のであって、「信じるために知る」のではないのだ。つまり、信じてこそ知ることができるのであり、信じないうちは知ることには至らないのである。しかし、信じようとしても信じることはできない。信じるということは信じることが可能となっている人に与えられる神の御業だからである。

イエスが語った言葉に従って、「神の国を探す」のはイエスを信じる者である。信じる者が探すのであって、探したならば信じるようになるのではない。探そうとするときすでに信じているのである。それゆえに、探す者にはイエスの言葉のとおりの神の御業が生じている。探す者は信じているのだから。

イエスとの関係は、信仰のみの関係である。信仰に従ってイエスの言葉に従う。イエスの言葉に従って信仰を生きる。他者に憐れみを行い、自らの所有を主張しない生を生きる。イエスとの関係を単純に生きるとき、我々は無尽蔵を作っている、天に。古びない財布を作っている、天に。我々の宝であるキリストの豊かな蔵、無尽蔵からすべてが供給される。何も心配する必要はない。思い悩む必要もない。すべては神が備え給い、与えることを喜びとしてくださっている国があるのだから。我々が心配したところで、何も造り出すことはできない。我々が心配したところで、寿命を延ばすことはできない。我々が心配しても誰も満たされることはない。我々はただ神の国を探すように生きるだけなのだ。そのとき、神の無尽蔵があらゆることの供給源となってくださる。

新しい一年を無尽蔵なる神の国を探して前進しよう。神は必要なものをご存知であり、我々のために備えてくださっている。我々はそれを見出すだけなのだ。見出すことができると信じて、探すだけなのだ。イエスがおっしゃるのだから、心配はない。無尽蔵の宝が我々に備えられている。天における無尽蔵が我々のために備えられている。それはキリストご自身であり、あの十字架の力である。使徒パウロが言うとおり、我々救われる者たちにとって、十字架の言葉は神の力である。十字架が我々の宝、無尽蔵の宝なのだ。

今年最初の聖餐を共にいただき、キリストの十字架の力に満たされよう。キリストはあなたのうちにご自身の体と血を与えてくださり、ご自身を形作ってくださる。尽きることなき宝を与えてくださるキリストを信じ、雄々しく歩み行こう、新しい年を、新しい心で、無尽蔵の神の国の中を。あなたは神の国の住人、キリストの宝をいただく者なのだ。

祈ります。

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