「出会いの場所」

2019年1月6日(顕現日)

マタイによる福音書2章1節~11節

 

「異なる道を通って、彼らは場所を空けて立ち去った、自分たちの場所へ」と最後に記されているとおり、三人の学者たちは幼子イエスに出会った後、その場所を空けて立ち去った。場所を空けなければ立ち去ることはできない。自分が一つの場所にいつまでもいるならば自分自身もどこにも行くことができないし、他の誰もその場所を使用することができない。学者たちは場所を占有することなく、他の人のために場所を空けて立ち去った。自分たちの場所へと立ち去ったと記されている。

彼らには自分たちが生きるべく定められた場所がある。それなのに、この場所へとやって来た。イエスに会うためにやって来た。自分たちの場所を離れてやって来た。彼ら三人の学者たちは自分たちの場所を離れたことによってイエスに会うことができた。自分たちのものである場所を離れなければ救い主に会うことはできない。救い主の場所は、救い主との出会いの場所であり、その場所は誰にでも開かれている。誰であろうともその場所を占有してはならない。三人の学者たちは占有することなく、イエスに出会った後は「場所を空けて立ち去った」のだ。立ち去る先は「自分たちの場所」であった。自分たちの場所で生きるために立ち去った。自分たちの場所で生きるのは、救い主イエスとの出会いに基づいた生である。出会いの場所を土台として生きる。小さき場所ベツレヘムを土台として生きる。パンの家を土台として生きる。小さきものが小さくないと言われるみことばに基づいて生きる。それがイエスと出会った者たちの生き方である。

彼らはイエスとの出会いの場所を空けることによって多くの人たちに出会いの場所を明け渡す。我々イエスに出会った者たちは、出会いの場所を占有することなく、他の人たちに明け渡して、自分の場所へと立ち去るのだ。この立ち去りによって、出会いの場所はすべての人に開かれている場所となる。イエスの場所はすべての人に出会いを提供している。イエスとの出会いの場所は開放されている。すべての人に開かれている。それは特定の物理的場所ではなく、イエスと出会うという出来事が生起する場所である。その場所は、星が指し示した場所であった。

「東方において彼らが見た星が先立ち進み続けた、幼子のいるところの上に立たされるまで」と記されている。星の下がどこなのかは正確には分かるものではない。見る位置によって、見る人の心の向きによって変わるものである。ただ、三人の学者たちにとっては、「幼子のいるところの上にその星が立たされた」と見えた。それがどのような天体現象であったのかは分からない。言えることは、イエスの上に立たされた星として見えたのは、三人の学者たちだけだったということである。彼らはイエスに出会った。出会いの場所を星が示した。彼らはイエスにひれ伏した後、場所を空けて立ち去った、彼らの場所へ。さまざまな物理的場所で生きるために、信仰的場所においてイエスと出会う。これが三人の学者たちの出来事が語っていることである。

救い主との出会いの場所は常に開かれている場所。出会いたいと探せば見つかる場所。出会いたいという思いを起こされた人に開かれている場所。地上の人間が見出すことはできない。天上の導きを受け取る者だけが見出す場所。地上の論理では見出すに至らない。地上の論理を越える天上の導きに信頼するだけで良いのだ。地上の人間の力では知ることができない信仰の場所。その場所を見出すには、導かれる必要がある。導きに身を委ねる必要がある。三人の学者たちの歩みが語っているのはこの信仰の場所、イエスとの出会いの場所への道筋である。

誰にも見えた星を探求することに至った三人の学者たち。誰もが不思議に思ったであろうに、三人だけが探しに出かけた。出会いの場所へ向かおうと思わされた。この思いを起こし給うたのは神。神が起こした思いに素直に従った三人だけが、遙か東方から西方のユダヤにやってきた。ユダヤにおいて、地上的な王を探したがゆえに見失った。地上的なものが何も明らかにできないところで、東方における星が先立ち進むように見えたのは、三人だけであった。天上の星が先立ち進むはずはないが、彼らにはそう見えた。彼らには幼子のいるところの上に星が立たされたように見えた。その場所を地上的に正確に把握できたのは、彼らが信仰的導きを受け取ったからである。出会いの場所を受け取るのは信仰のみである。

彼ら三人はおそらく二年前に不思議な星を見つけた。彼らが立ち去った後、ヘロデがベツレヘム近郊の二歳以下の子を殺害したことから考えるならば、星が最初に輝いた時を二年前と学者たちがヘロデに告げたのであろう。二年前にすぐに旅だったのかどうかは分からないが、彼らは二年間探し続けて、このときに至ったことをヘロデに話したのだ。二年間探し続ける意志を起こして下さった神の力によって彼らは導かれてきた。それゆえに、イエスに出会ったのち、夢のお告げのとおりに「異なる道を通って」立ち去った。異なる道は異質な道であり、地上的な道ではなく、信仰的道である。この道を通るということは、三人だけにしか分かり得ない道を通ったということである。地上的に考えるヘロデには分かり得ない道であった。しかも、場所を空けて立ち去ったのだ。出会いの場所へと導かれる者が空けられた場所に迎え入れられるために、彼らは場所を空けて立ち去った。

その場所は、ヘロデであろうとも真実に探し求めるならば導かれるであろう。自分の力を捨てていれば導かれるであろう。地上的力を捨てて、信仰的に天の導きを受け入れるならば導かれるであろう。出会いの場所へと導かれるであろう。この場所は、自分の力で探しても見出されるものではない。この場所は、星がその上に立たされたと受け取る者にしか開かれない。自分で資格を得ようとしても、導かれるものではない。資格もなく、ユダヤ人でもなく、ただ起こされた思いに素直に従った三人の学者たちが出会った出来事がそう語っている。救い主との出会いの場所は信仰的な場所。地上的に、自らが見出せる場所ではない。与えられ、開かれて、導き入れられる場所。その家の中に入れられる者だけが出会うことができる救い主キリスト。あなたがたはこの場所へと導き入れられた者たち。三人の学者たちと同じように、ユダヤ人ではなく、資格もなく、救い主を知らずに生きていた。それにも関わらず、あなたがたはキリストに出会った。あなたがたの上に輝いた星の導きを受け入れた。たったそれだけの小さな出来事が大いなる救いへの入り口なのだ。

三人の学者たちだけが小さな出来事を思い続け、二年間探し続けた。誰も探さなかった救い主を探し続けた。ヘロデにしても、二年前に不思議な星を見ていても良いのだ。しかし、彼には見えなかった。三人の学者たちだけが見た不思議な星。ユダヤ人の王の星。ここに至るまで求め続けて、ひれ伏して、宝を献げ、帰って行く。二年の歳月を短い礼拝で締めくくった三人の学者たち。彼らにとってのキリストの礼拝、キリストのミサ、クリスマスは二年という長い時間を献げることでもあった。二年間を献げた出会いは非常に短い時間であった。しかし、二年という時をかけた礼拝だった。献げた二年の出会いをすぐに明け渡して、自分たちの場所へと彼らは立ち去った。出会いの場所がすべての人に開かれるために、彼らは立ち去った。自分たちの場所で出会いの喜びを生きるために立ち去った。

救い主に出会った我々は、それぞれの場所へと帰っていく。その場所で救い主の力のうちに生きるために帰って行く。救い主の力が我々の生きる場所に満ち溢れるようにと帰っていく。救い主の力に満たされて帰って行く。我々が歩むこれからの一年を神の導きに従い進み行こう。小さなものを顧みてくださる神の力を信じて進み行こう。キリストはあなたにご自身を与えて、信仰を起こし、迷うことなく歩む力を与えてくださる。出会いの場所を開き給う神がすべての人に出会いを与えてくださるように。我々も自らの場所で生きて行こう、キリストとの出会いを。

祈ります。

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