「より強き方」

2019年1月13日(主の洗礼日)

ルカによる福音書3章15節~22節

 

「わたしのより強き方が来ている」と洗礼者ヨハネは言う。ヨハネは水に沈めていた。しかし、その方は聖なる霊と火に包む形であなたがたを沈めるであろうとヨハネは言う。その沈め方は、殻を火で焼き、穀粒を倉に片付け集めるという方法だとヨハネは言う。ヨハネより強き方は、殻と実を選り分けるように沈めるのである。従って、このお方の沈めは、ただ水に沈めるヨハネの方法とはまったく違っている。焼くべきものは焼き、集めるべきものは集める。それゆえに、このお方の洗礼の際には、天から火が降るように聖霊がハトの形で降った。聖霊がこのお方の上に留まることによって、このお方は沈めを行うのである。

ヨハネの洗礼である沈めは、より強き方の沈めを模倣しているようなものである。ヨハネはあくまで人間の意志によって水に沈めた。より強き方はご自身の意志によって沈める。その意志を受け入れる者だけが沈められる。沈められるという受動において、より強き方の沈めが実行される。人間の意志に従ったヨハネの沈めを越えるのは、このお方の意志を受動することである。この受動はより強き方の意志を受け取らなければ可能ではない。受け取るということは、自らの意志を捨てることである。受けたくない意志も受けたい意志も捨てることである。より強き方の意志が絶対であると、自分を捨てることである。

ところで、自分の意志を捨てるということは、自分が死ぬことである。自分自身の意志を捨てて、より強き方の意志に従うことである。それが実現するのはより強き方の意志である聖霊と火に包まれることによっている。包まれた存在は、聖霊を受け、火を受ける。自らの殻を焼き払われる。自らの殻は、わたしがわたしの周りにまとっていた殻である。聖霊と火に包まれて、裸にされる。そのとき、その人は光に包まれる。その人の見るものすべてが光を発して見える。光の中に包まれているがゆえに、光を通してすべてを見る。こうして、我々はより強き方の意志に包まれる。すべてのものが光であるように見る。この光は、神が与え給うた光。神のいのちの光。神のものとしての輝き。世界が輝きに満ちてくる。そのような洗礼、沈めをより強き方は行うとヨハネは言うのだ。

ヨハネは、自らの力の小ささを自覚している。この自覚の中で、ヨハネはより強き方のうちに生きている。ヨハネの自覚は、より強き方の力の中で生じている。ヘロデがヨハネを獄に閉じ込めたが、それはより強き方が裸のヨハネを倉に収めたということである。ヨハネは自らの力を捨てざるを得なかった。ヘロデの思いによって、ヨハネは獄に閉じ込められた。閉じ込められることを受けるしかなかったヨハネは、ここにおいて受け取ったのだ、神の意志を。神の意志に従って、ヨハネは閉じ込められ、倉に収められた。裸のヨハネが閉じ込められ、ヨハネという穀粒、実が神のものとして守られた。

我々キリスト者は、このヨハネのように神の倉に収められた穀粒なのである。この世の権力によって翻弄されているかのように思えることがある。それでもなお、その苦難を引き受け、閉じ込められることを受け取るとき、我々は神によって守られる。自分を捨てて、自分のいのちを守っていただく。それが我々の洗礼なのである。

我々の洗礼は、より強き方の意志に従って実現する洗礼である。より強き方は、我々を守るために、苦難をも引き受けるようにと導き給う。この世で自分を守るように思える殻を焼き払ってくださる。裸になってこそ、真実に自分を生きることができる。ありのままの自分を生きることができる。洗礼によって、我々はこれまでの自分の殻を脱ぎ捨てて、ありのままの自分自身で神の倉に収められる。こうして、我々は神に造られたままの自分を回復するのである。殻に守られ、殻にこだわっていた我々が殻を捨てる。金銭にこだわっていた我々が金銭を捨てる。地位にこだわっていた我々が地位を捨てる。自分を守ると思っていた我々が守ってくださるお方に委ねる。それが洗礼の意味である。

ヨハネのより強き方は、現在来ていると言われている。現在を生きることが未来を開く。現在を受け入れることが未来を受け入れること。未来を先取りすることなく、今を誠実に、ありのままに生きることが未来を生きることになる。裸になって、穀粒になって、未来を生きる。裸のいのちこそ、神のいのち。裸のいのちこそ、神が造り給うたいのち。裸のいのちこそ、神の意志に従ったいのち。このいのちの回復のために、より強き方は来ている。今来ている。未来を開くために現在を生きておられる。

より強き方のうちで、神は喜んでおられる。「あなたはわたしの愛する息子。あなたのうちで、わたしは喜ぶ」と天からの声が聞こえる。より強き方は神の愛する息子。そのお方のうちで神が喜び給う息子。神の愛を受け取る息子。この喜びは、より強き方を十字架へと導く。十字架が喜びであるのかと訝る我々に向かって、神は言い給う。「あなたはわたしの愛する息子。あなたのうちでわたしは喜ぶ」と。十字架に至るまで神の意志に従い尽くしたお方がより強き方である。より強き方は、我々にできないことを為し給うたお方。このお方が我々のうちに形作られることで、我々もまたこのお方と同じ形となって生きる。ありのままの裸のわたしを生きる。神のものとして生きる。神の愛の中で生きる。如何なることもわたしを害することはないと信じて生きる。

我々、キリストと共に沈められた者たちは、キリストと共に生きる者たちである。キリストがあなたのうちで生きている。神喜び給うキリストがあなたのうちで生きている。キリストがあなたのうちに生きているのだから、あなたも神喜び給う存在として生きる。自分を捨てて、キリストと共に生きるようにと召されたあなたは、キリストと同じように自分の十字架を取る。自分を捨てて、自分の負うべきものを受け取る。こうして、我々は苦難をも受難として生きることになる。苦難をも恵みとして生きることになる。神が与え給うたのだから、苦難さえも神の恵みなのだと受け取る。如何なる苦悩であろうとも、神のものとして受け取るならば、神の恵みとして働く。洗礼を受けるということは、このような世界に生きること。殻を脱ぎ捨てて、ありのままの穀粒として生きること。聖霊と火の中で生きること。聖霊と火に包まれて生きること。脱ぎ捨てられた殻を求めてはならない。脱ぎ捨てられた殻を集めてはならない。脱ぎ捨てられた殻に心を向けてはならない。あなたはあなたとして生きるのだ。あなたらしく生きる。神に造られたあなたを生きる。そのために、脱ぎ捨てた殻。そのために、焼き払っていただいた殻。そのために、裸になったわたし。

より強き方の沈めを受け入れたあなたは、神の子として生きる。神の愛する子として生きる。神喜び給う者として生きる。誰も気にする必要はない。誰もあなたを害することはない。何ものもあなたを殺すことはできない。神が造り給うたあなたは神のものとして生まれたのだから。キリストと共に、新たなあなたを生きる。新しいあなた自身を生きる。それだけが神の意志なのだから。

主の洗礼日の今日。我々は改めて、自らの洗礼の意味を受け取り直し、主イエスと共に死んだことを思い起こそう。自分を捨てて、神の意志に従ったあの日を思い起こそう。自分の十字架を取って、イエスに従って行こう。神はあなたを見捨てることはない。永遠のいのちに至るまで、あなたを守り導いてくださる。聖霊と火に包まれているあなたを誰も害することはできない。神の力に信頼して歩み続けよう、永遠のいのちへの道を、神の国に至るまで。あなたの未来はキリストによって開かれている。開かれている未来を生きるために、より強き方の力のうちにしっかりと身を沈めて、生きて行こう。

あなたを召したお方は、信頼に足るお方。あなたを召したお方はより強き方。この世の力さえもこのお方を破壊することはできないと、あの十字架が語っている。決して失われないいのちを喜び生きて行こう。より強き方と共に。

祈ります。

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