「真理に基づいて」

2019年1月20日(顕現節第3主日)

ルカによる福音書4章16節~32節

 

「真理に基づいてわたしはあなたがたに言う」とイエスはおっしゃる。25節の言葉「確かに言っておく」とは「真理の上でわたしはあなたがたに言う」が原文である。その前の「はっきり言っておく」は「アーメン、わたしは言う」である。アーメンとはヘブライ語で「固い」ということであり、「真実」という言葉エメトと同類の言葉である。通常こちらの方を「確かに言う」、「まことに言う」と訳す。ここでは、同じような言い方が繰り返されているために、「はっきり」と「確かに」とに訳し分けたのであろう。ギリシア語の言い方とヘブライ語の言い方が繰り返されているからである。いずれにしても、確かなことであり、真実であるという意味である。

預言者が故郷で受け入れられないということは確かなことであり、誰も反論できないことだとイエスは言う。その根拠を確かな聖書の言葉によって説明するのが、エリヤとエリシャの出来事である。どちらも聖書に記されているとおりのことをイエスは語った。「真理に基づいてわたしはあなたがたに言う」とは「聖書に基づいて」ということなのである。神の言葉である聖書が語っている事柄が「真理」であるという前提でイエスは言うのだ、「預言者の誰も、自分の故郷において受け入れられる者ではない」と。

しかし、聖書の真理が語っているのは受け入れられる者であるか否かではなく、神が派遣したのは異邦人のところだったという出来事である。そうすると、受け入れられる者ではないのは預言者ではなくその故郷の人たちということになる。それゆえに、ナザレの人たちはイエスを崖から突き落とそうとしたのだ。そして最後に、その人たちの真ん中を通り抜けて、イエスは進んで行ったと記されている。真理に基づいて語ったイエスは、真理のままに「真ん中を通り抜けて進んで行く」。真理とは隠れなくあることだからである。真理に基づいて語るイエスは隠れることなく、真ん中を通り抜けて進んで行く。真理に基づいているならば、逃げ隠れする必要はないし、何ものも恐れる必要はないということである。神が語る真理、聖書の言葉に基づけば、イエスは彼らに対して派遣されていないということであり、彼らは癒やされないということになる。なぜなら、彼らが真理に基づかず、自分たちの認識に基づいてイエスを判断しようとしたからである。

我々が聖書を真理であると信ずるならば、聖書に基づいてすべてを判断するであろう。いや、我々が判断するのではなく、聖書が語るように神が主体であることを受け入れるであろう。我々が主体として判断し、受け入れようとするときには、我々は真理に基づいてはいない。自分に基づいている。自分の価値観、思惑、世界観に基づいてのみ、我々は受け入れるか否かを判断する。自分の価値観に合致しないならば受け入れない。合致するときにのみ受け入れる。受け入れるようにと神が派遣した存在を受け入れない価値判断に生きている。そして、神を受け入れない。

神は受け入れてもらうようなお方ではなく、ご自身がすべての者を受け入れているお方である。受け入れる主体が神である。その神を受け入れないということは、受け入れている神に反して受け入れないのだから、神がその人に誰も派遣しないように生きているということである。派遣しても受け入れないのだから派遣されていないのである。その人は受け入れやすいものを受け入れるだけである。受け入れ難いものを受け入れることはない。これがナザレの人たちであった。イエスはその人たちの真ん中を通り抜けて進んで行った。真理であるイエスは通り過ぎてしまった。誰も真理であるイエスを捕まえることはできなかった。真理は彼らのところに受け入れられず、彼らは真理のうちに留まることはなかった。自分の思いのうちに留まっていた。これがイエスの故郷、ナザレの人たちであった。

イエスは安息日に慣習に従ってシナゴーグに入った。慣習に従ったイエスだったがその慣習がナザレの人たちを奴隷化していた。イエスは彼らの慣習に縛られた在り方を解放しようとした。彼らは慣習でなければ受け入れない。いや、受け入れないというよりも、受け入れる必要もないのだ、慣習なのだから。誰でも慣習に従うときには考える必要がない。受け入れるか否かを判断する必要もない。誰でもいつでもそうしているからである。では、イエスが慣習に従って、シナゴーグに入ったのも考えることなく入ったのであろうか。そうではない。イエスは慣習からの解放を与えるためにシナゴーグに入った。それゆえに、イザヤの解放の言葉を朗読することになった。神がその会堂にイエスを派遣したからである。イエスは、朗読した聖書の言葉が「あなたがたの耳の中に満たされた」とおっしゃった。それはあなたがたが耳にしたときに実現したということであろうか。いや、満たされたものを受け取るようにとイエスはおっしゃったのだ。

受け取るということ、受け入れるということは、真理のままに受け入れることである。わたしのために神が語られた言葉、わたしに語りかけられた神の言葉として受け入れる。それが聖書の真理の受け取り方である。客観的な真理というものは知識に留まる。わたしに語りかける真理はわたしを囚われから解放してくださる。それは知識とは違う。生きている言葉である。イエスはイザヤの言葉を朗読しながら、あなたがたの耳の中に満たされたこの言葉を受け入れよとおっしゃったのだ。

受け入れるということは、神がわたしに派遣した言葉として聞くこと。神がわたしに語りかける言葉として聞くこと。神がわたしのために今日語ってくださったと受け入れること。それが神の言葉、真理の聞き方である。ナザレのシナゴーグにいた人たちは神の言葉を聞いてはいない。イエスの口から出てくる言葉として聞いている。イエスを誉めても神を褒め讃えることなく、イエスを「ヨセフの子ではないか」と貶める。彼らは顔見知りのヨセフの子しか認めない。イエスが朗読した聖書の言葉、真理の言葉は彼らの耳に満たされただけで、彼らの魂には届かない。どうしてなのか。彼らが聞く耳を開かれていないからである。耳の中に満たされても、それ以上受け入れることができない。耳の奥は塞がれてしまっている。彼らの魂は固まっている。知っていることしか受け入れない。彼らは開かれることはない。解放されることもない。解放されたいとは思ってもいないからである。

人間は、自分の殻を作り、安住し、慣習に従っていれば心配ないと生きている。自分たちの父祖たちが苦しんだ奴隷状態からの解放も自分たちの問題とはなっていない。かつての祖先たちの問題であって、今の自分の問題ではないと、自分たちが真実に生きているか否かを問うことはない。真理に基づいて生きているのかを問うこともない。そのような問いをもっても、腹の足しにもならない。何の儲けにもならない。日々を生きる上で何の力にもならない。こうして、我々は慣習に奴隷化されて行く、何も考えない者として。そして、思考なき者が解放する者を殺害しようとする。それは自分たちの日常を破られたくないからである。自分たちが問題なのだと考えたくないからである。イエスは、彼らの問題を指摘した。聞きたくないと彼らはイエスを崖から突き落とそうとする。しかし、イエスを捉えることはできなかった。誰一人責任をもってイエスと向き合う者がいなかった。真理は、彼らから去って行った。向き合わなければ去って行く。それが真理である。

真理に基づいて、聖書に基づいて生きるということがキリスト者の生き方である。神が主体であると生きるのがキリスト者である。我々は耳に満たされた言葉を受け入れ、自らを奴隷化しているものを捨てた。再び奴隷化されてはならない。イエスが十字架に架けられてまで解放しようとしてくださった意志に我々は生かされているのだ。あなたの意志ではなく、イエスの意志だけが真理に基づいた意志。神の意志。神の愛。神の憐れみ。真理を受け入れるように、キリストの体と血を受け入れ、キリストに生きていただこう。あなたのうちにキリストを形作り、小さなキリストとして生きる者としてくださる神の言葉、真理に基づいて進んで行こう。

祈ります。

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