「御言葉に基づいて」

2019年1月27日(顕現節第4主日)

ルカによる福音書5章1節~11節

 

「しかし、あなたの語られた言葉の上に、わたしは降ろすでしょう、網たちを」とペトロはイエスに言う。「あなたの語られた言葉の上に」ということは「語られた言葉のゆえに」、あるいは「語られた言葉に基づいて」ということである。ペトロは自らの行為をイエスが語られた言葉に基づいて行うであろうと言う。イエスが語られた言葉に対して、最初は「一晩中労して、何もわたしたちは取りませんでした」と言った。一晩を通して何も取らなかったわたしたちは、もはや何も取れないということを知っています。しかし、あなたが「深みに行き、網を降ろせ」とおっしゃる言葉を聞きましたから、その言葉の上に網を降ろすでしょうと述べる。このペトロの言葉が語っているのは、イエスが言う「深み」がイエスの言葉であるとも取れる。あなたの言葉はわたしたちが理解できないような深いところにあるのでしょうから、その言葉の上に、その言葉に基づいて、網を降ろすでしょうとペトロは言うのだ。

この言葉が語っているのは、漁師としての経験を越えた深みがあることを認める言葉である。漁師でもないイエスに漁のことが分かるはずはない。それは良く分かっている。昨夜も何も取ることができなかったのだから。しかしそれでもなお、わたしは網を降ろすでしょう、あなたの語られた言葉の上に、とペトロは言う。イエスの言葉は単なる漁ではない何かを語っているのだとペトロは理解したのであろう。理性的に経験から考えれば、どうせ取れないであろうが、せっかくイエスさまがおっしゃるのだから網を降ろしましょうというペトロの気持ちである。そこには、イエスが言うことだから従ってみようという思いと、漁師としての経験上無駄なのだがという思いとが交錯している。ペトロのこの言葉にはペトロ自身の漁師としての自負が現れているが、イエスが何かの深みを見ておられるのかもしれないという気持ちもあって、彼は網を降ろすのだ。

その結果に対するペトロの驚きが、自らの罪深さを自覚した告白として語られている。「わたしから出て行ってください。なぜなら、わたしは罪深い男ですから」と。ペトロには罪の自覚が生じた。イエスの言葉に従ったことによって、ペトロは自らの罪深さを自覚し、イエスに「わたしから立ち去ってください」と願った。この自覚を生じさせたのはイエスの語られた言葉であった。御言葉に基づいて、ペトロの網降ろしの行為が起こり、罪の自覚が生じ、イエスの膝に伏すことが起こった。イエスの語られた言葉がなければペトロのこれらの行為は起こらなかった。イエスの語られた言葉、御言葉がペトロを罪の自覚と告白へと導いた。御言葉に基づいて行ったがゆえである。

ペトロはイエスを素人だと思う気持ちもあったであろうが、それでもイエスの言葉の上に網を降ろした。素人の言葉だと思うなら投げ捨てても良かった。ところが、イエスの語られた言葉に基づいてペトロは行った。それゆえに、イエスの力、可能とする力が大漁を引き起こした。そこから、罪の自覚も生じた。通常我々が考えるように、御言葉の力が現れるには、御言葉を確信しなければならないということではない。ペトロも確信はしていない。語られた言葉の結果としての収穫を確信してはいない。しかし、それでも御言葉に基づいて網を降ろした。それが御言葉に従うこと、御言葉に基づいた信仰の行為なのである。

確かに、ペトロはイエスの言葉に確信を抱いているわけではない。語られた言葉のようにはならないであろうと思っている。自らの経験上、そうはならないのだと思ってもいる。しかし、その経験を捨てて、イエスの語られた言葉の上にあえて網を降ろす。それが信仰の行為なのである。我々人間は確信して御言葉に従うというところにはなかなか辿り着かない。辿り着いてから従うのではない。確信してから従うのでもない。確信できるわけではないが、それでもイエスが語られた言葉の上に網を降ろすのである。そこにおいて、我々はようやく神の出来事をいただく信仰を生きる。

理性的に考えれば、御言葉に従わない理由はいくらでもある。ペトロのように経験上無理だということが分かれば、従わないことは起こりうる。すでに網を洗っている状態なのだからと、再び網を汚すことを嫌って、従わないことも起こるであろう。もう疲れているので、勘弁してくださいと従わないことも起こる。従わない理由を考えればいくらでも出てくる。それでもペトロは「あなたの語られた言葉の上に網を降ろすでしょう」と答えて、そのとおりに行った。我々罪深い人間のことを考えれば、さまざまな思いの錯綜する中であえて従うことが御言葉に従うこと、神に従うことである。

従った結果に期待することなく従う。むしろ、意図がないだけ、目的がないだけ、自負がないだけ、純粋に従っているとも言える。「信じているぞ」ということをイエスに見せるために従う人もいるであろう。キリスト者としての従順を人に見せるために従う人もいるであろう。このような場合、却って不純である。自分の思いが動機になっているからである。純粋に御言葉に基づいて生きるということは、自らのうちに動機がないということである。そのとき、神の言葉が動機となっている。ペトロの場合も、イエスがおっしゃるのだからと従ったのだ。彼自身には動機はない。むしろ、彼自身にあるのは従わないさまざまな理由である。それでもなお、ペトロは網を降ろした、御言葉に基づいて。そして、その結果をイエスの言葉から与えられた。

ペトロの罪の自覚は、自らがイエスの言葉を信じなかったことに対する自覚である。信じて行った場合、自分の信仰を誇ることにもなるであろう。ペトロは自分の信仰を誇ることはできない。むしろ、イエスの言葉の力、神の力を信じることへと導かれた。自らには罪深い思いしかないとの自覚へと導かれた。それゆえに、イエスはペトロに言う、「今から、人間の漁師としてあなたはあるであろう」と。それは、ペトロが人間の漁師になることができる力を持っているということではなく、人間の漁師であるであろうとおっしゃるイエスの言葉の力に従って、あなたはあるであろうと言われているのだ。ペトロに力がないことが明らかになり、ペトロがその自覚に導かれたがゆえに、イエスはそうおっしゃった。あなたは力ない者として、罪深い者として、人間の漁師としてあるであろうとイエスはおっしゃった。この言葉に従って、彼らは舟を陸に上げ、すべてを捨てて、イエスに従ったのだ。

ペトロに罪の自覚を起こしたイエスの言葉。イエスの語られた言葉がペトロに与えたものは、純粋な信仰である。人間的な思いがあってもなお、あえて網を降ろす信仰である。結果が分かっていて網を降ろすのではなく、信じ切ることができない罪人として網を降ろす信仰である。この信仰は、イエスの語られた言葉が与えた信仰である。イエスが語られたからと与えられた信仰である。イエスが語り給うたがゆえに、ペトロの信仰が起こされた。何もない者としての信仰が起こされた。これが今日の聖書が語っていることである。

我々キリスト者は、イエスを信じてから従ったのではない。従ってみようと踏み出して生きる中で、信じる者に変えられたのだ。信仰は、イエスの語られた言葉から来たる。イエスの語られた言葉が信仰の根源的付与である。使徒パウロがローマの信徒への手紙10章17節で言うとおり、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語られた言葉を通して」なのである。キリストの語られた言葉が信仰の根源であり、神ご自身がすべての根源である。御言葉に基づいて行ってみる者は、必ずや神の現実を認める信仰へと開かれるであろう。行わない者は開かれることはない。

ペトロに起こったことは誰にでも起こりうる。ただ、御言葉に基づいて行う者に起こりうる。起こりうることはすべての者に可能となっている神の出来事である。神はすべてのことを可能としてくださる。このお方の言葉は信頼に足る言葉。御言葉に基づいて踏み出すとき、我々は信仰を起こされ、純粋に従う生へと開かれていく。キリストの語られた言葉の上に網を降ろしてみよう。

祈ります。

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