「神の力」

2019年2月3日(顕現節第5主日)

ルカによる福音書6章17節~26節

 

「神の可能とする力が、彼から出て行っていたから、そしてすべての人を癒やしていたから」と言われている。「神の可能とする力」はデュナミスと言う。デュナミスは可能とする力だから、現在不可能であっても将来可能とされるということである。イエスから出て行く力は将来を可能とする力であった。また、癒やされることは、健康な者になることである。従って、心身共に健康になるように、神の可能とする力は出ていくのである。この力が出ていくのは、現在が不可能の中に置かれているからである。不可能ということは、可能ではないのだから、その人は何もできない状態に置かれている。しかし、神の可能とする力に覆われれば、可能な状態にされる。この可能な状態こそが神が望んでおられる状態である。それはどのような状態なのであろうか。

ここでイエスが弟子たちに語る言葉は、逆転を語っている。現在不幸な者は将来幸いな者になる。現在幸いな者は将来不幸になるということである。イエスがこう言わなくとも、人生というものは逆転の連続である。良い状態にあると思っていたのに、一瞬のうちに悪い状態になることがある。いつまでも良い状態が続くわけではない。イエスはこのような当たり前のことを語っているのであろうか。もし、そうであれば幸いな状態になった不幸だった人たちは将来再び不幸な状態になるのではないのか。不幸な状態になった幸いだった人たちは将来幸いになるのではないのか。イエスがおっしゃるのは、この世の逆転の相が交互に繰り返されるというだけなのだろうか。

そうであれば、将来良くなるのだから、今現在不幸であっても落胆するなということになる。今現在幸福であっても傲慢になるなということになる。それだけであれば、神の可能とする力など必要ない。「禍福は糾える縄のごとし」と言うようなものである。司馬遷の史記を読めば良い。そこから抜け出すことは人間にはできない。この世は糾える縄のように不幸と幸福とが入れ替わり立ち替わり訪れるのだから、そう思って生きて行けば良いのだ。

それだけであれば、神の可能とする力は何をするのであろうか。この世の理を越えて、何事かを可能としなければ神の可能とする力ではない。この世の理だけで世界が動いていくのであれば、キリストの復活も起こらない。神など必要ない。この世はなるようにしかならないのだから。その理を受け入れて、理に翻弄されながらも、現在を生きる。それが神の可能とする力によって可能となるのであろうか。それが癒やし、健康な姿にされることであろうか。

聖書が言う癒やし、健康な姿にされることは、この世の理に従うことではない。この世の理を越えて生きること、この世の理にも関わらず、神の意志に従って生きることである。神の可能とする力は我々人間を本来の姿にする力である。本来の姿とは、神が我々を造り給うたときの姿。神の意志によって造られた我々人間が、神の意志に従って生きていた姿である。アダムとエヴァの堕罪の結果、本来性を失った我々人間が、神の創造の姿に回復されること。これが神の可能とする力デュナミスの働きでなくて、何であろうか。

我々は、この世の理に従って、不幸と幸いを交互に生きるだけで良いのだろうか。不幸になれば、幸いな者をうらやみ、妬み、不幸になれば良いのにと思う。幸いになれば、不幸な人たちを見て、哀れと思い、ああはなりたくないと思う。あそこまで墜ちなくて良かったと胸をなで下ろす。これが我々の罪深い姿である。不幸な者が幸いなのは、実は不幸を知っていること、蔑みを知っていることではないのか。不幸を知るがゆえに、不幸な人の思いに寄り添うことができる。不幸であって、幸福になったとすれば、不幸な人の悲しみを支え、分かち合おうとする。誰にでも不幸が訪れるのであれば、自らを省みて傲慢にならないようにと戒める。不幸を知っている人の方がその魂は豊かである。それゆえに、欠乏している者、渇望している者、泣いている者は幸いな者なのである。そして、これを可能にするのが神の可能とする力である。

我々人間は、自分のことしか考えないという罪の状態にある。しかし、神の可能とする力に覆われるならば、他者を思いやる心が開かれる。こうして、神の意志に従ったいのちが回復される。他者の不幸に溜飲を下げたところで、何の良いことがあろうか。自分を蔑んだ者を蔑んだところで何の良いことがあろうか。いつまでも他者を蔑み、貶めることで、自分自身の魂を汚しているだけである。汚れた魂は結果的に不幸になる。そこから抜け出すことができなくなる。こうして、我々はいつまでも禍福の縄を延ばしていくだけである。禍福の縄を断つことはできない。神の可能とする力だけが、これを断つのだ。

イエスの周りに集まっていた人たち、弟子たちは、不幸を抱えつつ、搾取に苦しみ、蔑みに耐えざるを得なかった。欠乏、渇望、涙が彼らの日常であった。イエスによって、その日常から解放されたなら、今まで自分たちを蔑んでいた者たちを見返してやろうと思っていたであろう。しかし、イエスはそのような低次元の思惑を越えるようにと、彼らに語る。預言者と偽預言者のことを語るイエスは、受け入れられない苦しみを知ることこそが真実の預言者であると述べている。受け入れられない者であるとしても、神が受け入れておられる。真実の預言者は人間を見ない。偽預言者は人間に気に入られようとして、神の真実を捨てている。同じように、人間に受け入れられることを求めず、ただ神に従うことを求めよとイエスは言うのだ。

神に従うためには、神の可能とする力に覆われる必要がある。覆われる人は、現在において苦しみ、泣き、欠乏している者である。なぜなら、彼らは人間に求めることができないからである。自分を受け入れ、満たしてくださるのはもはや神しかおられないと生きているからである。人間の力に頼っている限り、人間の力の範囲に留まる。神の力にすがる者は、人間の力は頼り得ないことを知っている。そして、神の可能とする力を素直に受け取る。これが幸いな者たちなのである。そのときには、この世の現実も神の可能とする力に伴って良きものとして現れる。イエスが言う「あなたがたは満たされるであろう」、「あなたがたは笑うであろう」という将来は神の可能とする力に伴って現れる現実である。その根源には「神の国はあなたがたのものである」という現在があるのだ。

「神の国はあなたがたのものである」という現在を信じて生きるならば、欠乏も渇望も涙も、満たしと笑いに変えられる。神の可能とする力によって覆われている現在を信じるならば、神の国はわたしたちのものだと生きるであろう。欠乏していても神の国はわたしたちのもの。渇望していても神の国はわたしたちのもの。神の国の現在にわたしは覆われ、生かされている。それゆえに何も心配する必要はない。神がわたしを支配し、守ってくださるのだからと信じる。この信仰を与えるのが、神の可能とする力なのである。

神に信頼するとき、すべては良きものとなる。神に信頼するとき、苦難も受難として引き受ける。神に信頼するとき、十字架も復活につながる神の出来事となる。神に信頼するとき、すべてのものは可能なる将来のために役立つものとして働く。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章28節で言う如く、「しかし、わたしたちは知っています、神を愛している者たちに、すべてのことが共働していると、善へと、計画に従って召されてある者たちに」という現実が現れるのである。従って、我々は現在の苦難に落胆する必要はない。我々の将来は現在の神の国に可能態として存在しているのだから。神を畏れ、愛し、信頼する者にはすべてが可能なのである。

神の可能とする力を我々に注ぐため、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。我々が本来の人間性を回復され、神の国の住人として生きて行く力をくださる。神の国はあなたのもの、あなたは神のもの、キリストの力をいただく者。今日もキリストの体と血に与って、神の国の現在を共に生きていこう、神の可能とする力に覆われて。

祈ります。

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