「聞いている者たち」

2019年2月10日(顕現節第6主日)

ルカによる福音書6章27節~36節

 

「しかし、あなたがたにわたしは言う、聞いている者たちに」とイエスは言う。「しかし」と言う。前節までに述べていた不幸な者たちのことを聞いて、あなたがたは溜飲を下げたであろう。しかし、そのあなたがたにわたしは言うのだとイエスはおっしゃる、「敵を愛せ」と。「聞いている者たち」は自分たちの思いが聞き届けられたと思う人たち、おそらく富んでいる者たちに虐げられてきた貧しい人たちであろう。支配層たちに搾取されてきた者たちであろう。あなたがたは不幸であるとわたしが言った富んでいる者たちのことを聞いている。喜んで聞いている。自分たちは幸いであると言われたのだからなおさら聞いている。自分たちを苦しめてきた者たちが不幸になるのだから、こんな喜ばしいことはないと聞いている。そのあなたがたにわたしは言うのだ、「しかし」と。

「しかし」と言うのだから、今までの論理とは反対のこと、違うことを述べるということである。「しかし、あなたがたにわたしは言う、聞いている者たちに」と。おそらく、富んでいる者たちは聞かないであろう。彼らは自分たちが不幸になる話など耳を塞いでしまう。聞きたくもない。しかし、あなたがたは聞いている、貧しい者たちよ。あなたがたは良くわたしの言葉を聞きなさい。そして、わたしの言葉に従いなさい。そうでなければ、富んでいる者たちと同じことになってしまうから、とイエスは言うのである。

「敵を愛せ」という言葉は、自分たちを責めて、苦しめる「敵」を愛せということである。自分たちを生き難くしている敵、富んでいる者たちを愛せということである。不幸になるであろう彼らを愛せということである。それこそが憐れみなのだからとイエスは言う。

愛することができる者を愛するのは誰にでもできる。利息付きの返済を求めて貸すことも誰にでもできる。愛してくれない者を愛すること、返ってこないであろうお金を貸すこと、それが真実に愛することであり、貸すことであるとイエスは言う。赦すことも、赦せない者を赦してこそ赦しである。赦せる人は、赦してくださいとわたしの前に跪く人である。赦してくださいとも言わず、跪くこともしない人を赦すことなどできるものではない。そのような赦せない者を赦してこそ赦しである。愛せない者を愛してこそ愛である。返ってこないとしても貸すことが貸すことである。と、イエスはおっしゃる。

これらの言葉は我々にできるか否かが問われているのではない。できないからしなくて良いということではないし、できることだけすれば良いということでもない。我々人間にできようとできまいと、イエスが命じておられるのだ。イエスが命じることは我々の能力を超えていても命じていることである。我々に不可能であろうともイエスは命じている。これが今日のみことばである。

最終的にイエスは「憐れみ深い者として生ぜよ」と言われる。「憐れみ深い」という言葉はヘブライ語ではラハミームである。それは母の胎を表す言葉である。敵を愛するということは、敵を胎に抱えることだとイエスは言うのである。胎に抱えるということは大切な子を胎に抱える母ならば理解できる。男には理解不能である。母であれば自らの体の中にもう一つのいのちがはぐくまれていく過程を知っている。そのいのちをはぐくむことはただ抱えるしかないことである。敵を愛することはただ抱えるしかないことである。抱えていれば生まれてくる子のように、神が生まれさせてくださる。抱えていなければ、いのちははぐくまれない。敵のいのちをはぐくむために、敵を敵として抱えていることをイエスは求めておられる。

敵は敵であって敵でなくなることはない。この世では立場の違いによって、利害の違いによって敵になる。利害が一致すれば敵ではなくなるかと言えば、そのようなときもあるであろう。しかし、人間同士は利害が一致することはまれである。ほとんどの場合、我々は他者と同じ利害で生きることはない。同じ立場で生きることもない。わたしと他者は同じではないのだ。だから、他者の言葉に傷つけられることもあれば、わたしの言葉が他者を傷つけることもある。どれだけ気をつけていても、人間はどこかで自分を守るものなのだから、気づかないうちに敵対的な言葉や否定する言葉を使ってしまう。結局自分のことを優先するがゆえに、後回しされた、否定されたと感じてしまう。傷つけられたと感じることになる。どんなに気をつけていても、他者を傷つけてしまうのが人間なのである。

そんな我々が、敵を胎に抱えることができるであろうか。胎から放り出したいと思ってしまうのではないか。それでもイエスは、敵を愛せ、胎に抱える憐れみを生きよとおっしゃる。それができるならば、イエスの言葉は残らなかったであろう。むしろ、できないからこそ、イエスの言葉は我々のうちに残る。そして、いつも我々の心を突き刺す。この痛みを持つ者こそがキリスト者となりつつある者である。その人は聞いている者だからである。

痛みを持たない者には二種類の人間がいる。イエスの言葉は自分には関係ないと聞き流してしまう人間。もう一人は、イエスの言葉ができていると思う人間。関係ない人もできていると思う人も、イエスの言葉が痛くない。イエスの言葉がいつも心に引っかかっているということがない。できていないということに痛みを持ち、できない自分を責め、自分はキリスト者に相応しくないと思う、そのような人がキリスト者となりつつある人である。その人は、敵を胎に抱えて苦しんでいる人である。敵を胎に抱えることなく、外に投げ出している人は苦しまない。痛みを感じない。相手が悪いのだと自己正当化している。無視していれば良いのだと除け者にする。自分は苦しむことなく、相手に苦しみを与えている。このとき、我々は罪に浸り込んでいる。イエスの言葉はその人のうちに留まってはいない。イエスが「聞いている者たちに」語ってくださった言葉が留まってはいない。聞いている者たちの思いが変えられるようにと語ってくださったイエスの心を受け取ってはいない。聞いている者たちが神の子として生きるようにと命じてくださった言葉に包まれてはいない。我々はこのような者たちである。

できない者たち、従い得ない者たち、敵を責める者たち、憐れみのない者たち。それが我々人間の姿である。それでもなお、イエスは命じておられる。憎しみに満たされている者が親切にする者であるように。悪口を返したくなる者が祝福を祈る者であるように。頬を叩き返したい者がもう一方の頬を向ける者であるように。上着も下着も奪われまいとする者が奪われても良いと生きる者であるように。奪われたくないだけではなく、与える者であるように。奪い返したい者が取り戻さない者であるように。相手に行って欲しいと求めるばかりの者が相手に対して行う者であるように。愛されたい者が愛する者であるように。返してもらうことをあてにして貸す者があてにせず貸す者であるように。地にへばりついている人間が高きお方の子となるように。恩を知らない者が、悪人が、情け深い者となるように。

これがイエスの命令である。そして、イエスの願いである。神の意志である。この実現のために、イエスは十字架を引き受けてくださった。我々に見返りを期待することなく、すべてを与えてくださった。恩知らずな悪人である我々を憐れみの胎に抱えてくださった。それがあの十字架である。あの十字架が我々を抱え続けてくださる限り、必ず我々は生まれる。神の子として生まれる。神の意志に従う者として生まれる。与えることを喜ぶ者として生まれる。見返りを期待せず与える。敵を愛し、敵を胎に抱え、敵のいのちを守る。罪深い思いで聞いている者たちであろうとも、イエスが語り給う言葉が我々を生み出してくださる。神の意志に喜び従う者として生み出してくださる。我々に不可能であろうとも、イエスの言葉はすべてを可能としてくださる。イエスの言葉を聞いているあなたがたは、イエスの命じる言葉を生きることになる。父の憐れみの胎に抱かれて、あなたは父の子として生まれるのだ。

祈ります。

Comments are closed.