「解放の土台」

2019年2月17日(顕現節第7主日)

ルカによる福音書6章37節~49節

 

「あなたがたは解放しなさい。そして、あなたがたは解放されるであろう」とイエスは言う。最後に「彼は深く掘った。そして、彼は岩の上に土台を据えた」というたとえを語っている。他者を解放することは、自分を解放することだと述べて、最後に岩であるキリストの上に自分を据えた人について語っている。これらの言葉は関連している。自分が為したように為されるということである。しかし、土台の岩であるキリストに至るまで深く掘った人でなければそうはならない。土台であるキリストは我々の解放の土台なのである。

他の福音書では「赦す」という言葉はアフィエイミ「手放す」が使われているが、ルカではアポリュオー「解放する」が使われている。意味としては同じであるとしてもルカは他者を「解放する」ことを強調している。他の「赦す」ことの場合は、自分が「手放す」ことに強調点があるが、ルカの場合は自分が「解放する」ことに強調点がある。どちらも自分が何を為すかを語っているが、ルカの場合は「解放」であり、他の場合は「手放し」である。手放しの場合は、自分が関わらないということであり、解放の場合は自分が自由を与える主体として行為していると言える。自分が縛っていたものを解放するからである。もちろん「手放し」の場合も自分が握っていたものを手放すのだから主体的に手放しているとは言える。しかし、手放しと解放とでは主体の強調点が違う。手放しの場合は放り出すことのようであるが、解放の場合は自由を与えることである。自由を与えるということは、自分だけではなく他者に縛られていた場合にも言えることだから、手放しよりも広い範囲に及んでいる行為だと言える。自分の許から手放すだけではなく、他者の許からも解放させるように働くことが「解放する」という言葉が示している事柄である。しかし、我々は他者の許からの解放ができるのであろうか。

出エジプトの際には、ファラオの許からの解放をモーセが主導した。モーセがイスラエルの民それぞれに「自分で脱出せよ」と言ったわけではない。モーセは主導的にイスラエルの民を脱出させたのである。手放しの場合は、一人ひとりの自覚的脱出に委ねるだけであろう。解放の場合は、総合的な脱出を主導するということである。そうは言っても、我々は他者を解放するために働くことができるのであろうか。一人ひとりが解放されるためには、一人ひとりが自覚的に脱出する必要があるのではないのか。誰かの許で解放される場合は、解放したその人に再び縛られることになりはしないか。確かに、そうである。ところが、一人ひとりの自覚に委ねている場合では総合的な脱出は不可能である。総合的な脱出を主導するためには、一人ひとりが解放されている必要がある。自分が縛られている状態を自覚し、そこから脱出することを求める必要がある。一人ひとりが自覚的に脱出すべきことを自覚させることが「解放」なのである。この「解放」を他者に伝えることが「あなたがたは解放しなさい」とイエスが言う事柄であろう。そして、解放する土台を一人ひとりが同じ岩の上に建てることが、イエスの言葉を聞いて実行することなのである。そのとき、すべての者が自覚的に主体的に岩の上に自分を建てることになる。これが教会だと言える。

岩の上に自覚的、主体的に自分を建てるということは、岩に至るまで深く掘る必要がある。この掘り下げが自分を掘り下げることであり、自分を深く掘るということである。自分自身の土台がどこにあるのかを深く掘り下げるとき、人は自分自身で生きているのではなく神とイエス・キリストによって生かされていることを知るであろう。この自覚を得るとき、我々は他者を解放する者としての自分自身を生きることになる。そのとき同時に自分も解放されているのである。それがイエスが最初におっしゃっている言葉、「あなたがたは解放しなさい。そして、あなたがたは解放されるであろう」という言葉が語っていることなのである。

我々が自分を深く掘り下げるとき、自分自身の土台がどこにあるのかを知る。深く掘り下げるときに、岩を覆い隠していたものを解放しながら掘り下げていく。覆い隠していたものは自分を繕って隠していたものである。本当には悪い木であるのに、良い木であるかのように見せていた自分である。この自分を解放していく行為が「深く掘る」という行為なのである。そのとき、我々は他者を自分に縛り付けていたものを放り投げていく。そして、他者を解放する。他者を解放してしまった時点で、岩に辿り着き、自分自身を解放することになる。そこから、他者も自分を掘り下げて行くようにと勧めることも生じる。これがイエスの言葉を聞いて実行することである。

掘り下げはイエスの言葉を聞くことから始まる。イエスの言葉を聞くことは自分を掘り下げることである。このわたしが何に縛られていたのかを確認しながら、わたしが縛り付けていたものを解放し、わたしを生かしている土台まで辿り着くとき、わたしは他者を解放しつつ自分を解放している。こうして、我々は自分自身からも解放される。

我々は自分さえも縛っている。自分は自分が守らなければならないと自分を縛っている。神とイエス・キリストが守ってくださると最初から信じる者はいない。堕罪の結果、エデンの園を追放され、神の守りを離れてしまったがために、自分は自分で守らなければならないと思い込んでいるからである。しかし、神がわたしを造ったのであれば、エデンの園を追い出されてもなお、わたしは神の被造物であることに変わりはない。神の被造物であるならば神が守らないはずはない、神が与えた皮の衣があるのだから。この認識に至ることが、地を深く掘り、岩の上に土台を据えるということである。

我々は本来岩の上に建てられていたのだ。堕罪の結果、岩の上に建てられていた自分を見失い、自分を守るために他者を縛り付けて生きてきた。自分が傷つくのは他者の所為である。自分が不幸になるのは他者の所為である。自分が悲しむのは他者の所為である。他者を裁き、責めることによって、自分を保ってきたのが我々罪人なのである。このわたしは他者を自分に縛り付けて自分は他者の所為でこうなっていると他者を責め続けてきた。自分自身が土台を覆い隠して生きてきたにも関わらず、誰かがこうしてしまったのだと他者を糾弾してきた。それが自分をも縛り付けることになったのだ。そこから解放されるには、まず他者を解放しなければならない。他者を解放することによって、我々は地を深く掘ることになるのだ。他者を解放するということは、「あなたの所為でわたしが生き難くなっているのではない」と他者を自由にすることである。「わたしは自分で自分を生き難くしていたのだ」と告白することでもある。「地」とはわたしが造られた土のことだから、土を深く掘り、他者を解放して行くことによって、わたしも解放され、互いに真実の土台の上に自分を建てることになる。こうして、我々はそれぞれ自覚的に主体的に自分と岩との関係を生きる。それがキリストに従うということである。

あなたの解放の土台であるイエス・キリストを見出すまで自分を掘ってみよう。他者を解放して行こう。他者の所為ではなく、わたしがわたしを生き難くしていたのだということを見出して行こう。そのとき、あなたはキリストという土台の上に生かされているあなた自身を見出すことであろう。

イエス・キリストはあなたの土台である。あなたを生かすお方である。あなたのいのちである。このお方は、あなたのためにご自身の体と血を与えてくださり、あなたのうちなる土台として見えるように御姿を現してくださる。あなたのうちにキリストが形作られることによって、あなたはあなたらしく、神に造られた者として生きて行くことができる。感謝して、聖餐に与り、キリストに生きていただこう。あなたは神のもの。神が愛し、守り、生かしてくださる存在。あなた自身で守る必要の無い存在。神が守り給う意志を受け取り、本来のあなたを生きて行くことができますように。あなたは自分を解放することができる、キリストによって。

祈ります。

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