「権威の下に」

2019年2月24日(顕現節第8主日)

ルカによる福音書7章1節~10節

 

「彼は満たしたので、彼の語られた言葉たちを、民の聞くことへと、それで彼は入っていった、カファルナウムへ」と言われている。イエスは、ご自身の語られた言葉たちを民が聞くように十分に満たしたので、カファルナウムへと入っていった。「民」とはラオスというギリシア語でイスラエルの民を意味している。イスラエルの民が聞くように語るべき言葉を満たしたので、カファルナウムへと入っていったということは、カファルナウムはイスラエルの民以外の異邦人の地を意味していることになるのだろうか。カファルナウムはローマの百人隊が駐屯していた場所ではなかった。それゆえに、この百人隊長は退役軍人で、ユダヤ教に改宗していた人かもしれない。彼が謙虚にも「わたしの屋根の下に入っていただく価値もない」と述べていることから考えれば、彼は自らが異邦人であるがゆえに、イエスに屋根の下に入っていただく価値はないのだと述べていることになる。これは、ユダヤ教への改宗者でなければ語り得ない言葉であろう。では、カファルナウムへと入っていったイエスは何をしようとしていたのであろうか。

イスラエルの民全体に語るべき言葉を満たしたのだから、異邦人たちも住んでいるガリラヤのカファルナウムに入って行ったのはそこに住む異邦人たちに語るべき言葉を満たすためなのだろうか。しかし、ここに続いて記されている出来事を見てみれば、死者たちを生き返らせるイエスの働きが述べられている。これは異邦人であろうとユダヤ人であろうと差別なく行われている。それゆえに、イエスがカファルナウムに入っていったのは、満たされたみことばが真実に受け取られているかを確認するために、再び入っていったのだと考えるべきであろう。なぜなら、イエスは宣教のはじめにおいて、ナザレの会堂から宣教を始めているのだから、ガリラヤという地域にはすべて神の言葉が語られたのである。その上で、神の言葉の働きを確認するために、イエスはカファルナウムを含めて、ガリラヤ地域を回ったのであろう。その最初の地がカファルナウムであった。

何故、カファルナウムが選ばれたのか。そこはガリラヤの中心地だったからである。このカファルナウムには宣教のはじめにも入っている。さらにイエスは、ユダヤの諸会堂で教えた。十二人を選び、弟子たちと群衆を前に平地の説教を行い、イスラエルの民すべてに神の言葉を宣べ伝えた。その後、再びカファルナウムに入るのである。イエスの宣教の中心はガリラヤの中心地であるカファルナウムだった。何度も入っていったカファルナウムには異邦人も住んでいて、異邦人たちも神の言葉を聞いていたはずである。この百人隊長もユダヤ教の会堂を建てたのだから、改宗していた可能性は高い。イエスが神の言葉を満たしたユダヤの諸会堂ではイエスへの反発が起こったが、この百人隊長はイエスの言葉を受け入れた。敵である百人隊長がイエスの言葉を受け入れたことによって、異邦人にも神の言葉は受け入れられることが明らかになった。彼の信仰は「権威の下に」生きる信仰であった。

百人隊長は自らが権威の下に生きてきた存在であるがゆえに、イエスの言葉ロゴスだけですべてはそのとおりになるのだと信じた。イエスはここに神の権威に従う真実の信仰を見出した。イエスがカファルナウムに再び入っていったのは語られた言葉が満たされた地域において、信仰は如何にはぐくまれているのかを見るためであっただろう。イエスが語った言葉がこの百人隊長にも信仰を起こしたということがここで確認されたのである。

ナザレでの迫害、ユダヤ当局から派遣されてイエスを批判するファリサイ派や律法学者たち、イエスの言葉を聞こうと集まってきた群衆。これらの出来事を通して、イスラエルの民全体にイエスは語るべき言葉を語った。そして、再びカファルナウムに入っていった。すでに語られた言葉が何を起こしているのかを確認するために。そして、イエスはこの百人隊長に出会い、語られた言葉が彼に起こした信仰を確認することができた。それは信仰を確認したというよりも、イエスが語った神の言葉の力を確認したということである。神の言葉は権威ある言葉。神の言葉は信仰を起こす言葉。信仰を持っていると思っていた人々の不信仰を明らかにし、信仰などないと思われていた異邦人に信仰が起こされた。この事実をイエスは確認したのである。さらに、語られた言葉が何を起こすのかもここで確認されている。語られた神の言には死者たちを起こす力があるということが確認されたのである。その最初の力がここで確認されている。

百人隊長は権威の下にあることを理由に、イエスに異邦人である自分の屋根の下にわざわざ入っていただく必要はないのだと述べている。これは単なる謙虚さを示しているのではなく、彼に与えられた信仰の力を示している。イエスが語る言葉が重要なのであり、イエスが触れることやその場所に直接的に存在することが重要なのではないと確認されている。イエスは、百人隊長を通して確認された真実の信仰を認め、彼に信仰を起こし給うた神の言葉の働きはイスラエルに限定されないことを確認している。権威の下に生きる存在は誰であろうとも信仰を起こされることを確認している。この確認によって、何が起こるのかと言えば、世界全体への宣教の可能性が開かれるということである。そこにはまた、イエスの復活につながる死者たちの起こしの可能性が示唆されている。さらに、死者たちの起こしとは、健全な状態にされることなのだということがこの百人隊長の下僕の癒やしにおいて語られている。

「元気になっていた」と訳されている言葉はヒュギアイノーというギリシア語で、「健全な状態にされる」ことを意味している。単に生き返ったということではないし、病気が治ったということでもない。健全な状態にされることで、生き返りが実現しているが、これが復活を示唆しているとすれば、復活とは不健全、不完全な状態であった人間が完全で健全な状態にされることだと言えるであろう。百人隊長の下僕は不健全な状態であったが健全な状態にされた。それは百人隊長が健全な状態にされる信仰を起こされたからである。百人隊長の権威の下に生きていた下僕も百人隊長と共に健全な状態にされたということである。

特に不思議なのが、ここでイエスが下僕が癒やされるようにと語ってはいないということである。それなのに、下僕は癒やされている。何故なのか。イエスが直接的に語る必要がなかったのは何故なのか。信仰は語られざる言葉も聞いているということである。イエスが百人隊長の信仰を誉めた言葉は、すでに働いている信仰を確認したことである。イエスが確認しなくとも、百人隊長が長老たちの後に友だちを派遣した時点で彼の信仰は働いていたのである。この信仰は、イエスが確認せずとも働いていたし、百人隊長も確認できていた。彼がイエスの言葉ロゴスを求めて友だちを派遣した時点で、彼はイエスのロゴスを受け取っていたと言える。信仰において求めることにおいて、すでに受け取っているのである。それが権威の下に生きる信仰の現実である。

イエスはこのような信仰が働いていることを確認するために、このカファルナウムに入って来た。そして、そのとおり確認した。我々が確認している百人隊長のうちに起こされた信仰は我々のうちにも起こされている信仰である。我々がイエスに求めるときすでに与えられている。与えられている信仰に基づいて求めるがゆえに、求める時点で神の働きを受け取り、それは実現している。これが我々の祈りであり、我々の信仰なのである。

我々が祈る前に、神はすべてを備え、整え、実現するように見えないところで働いておられる。我々の信仰はこの神の働きを受け取り、確認するために与えられているのである。権威の下にあるならば、すべては権威が備え、整え、働いているのと同じことである。我々信仰者は神の権威の下に生きるように召された者。あなたに与えられている信仰は神の働きを認めるだけ。神の権威の下にあってこそ認められる神の働きを信じ、謙虚に神に従って行こう。

祈ります。

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