「異質なる者」

2019年3月3日(主の変容主日)

ルカによる福音書9章28節~36節

 

「そして、生じた、彼が祈っていることのうちで、彼の顔の外観が、異質なるものとして」と記されている。「異質なるもの」とはギリシア語でヘテロスであり、異種のものを表す言葉である。イエスの顔の外観が異質なるものとして生じたということは、今まで知っていたイエスとは異なる顔になったということである。イエスの本質が現れたということであろうか。イエスの本質は我々とは異なる本質だということを表しているのだろうか。

「顔」というものはその人の内面を表出するものである。顔を見れば、その人がわたしの述べていることに同意しているのか、違うと感じているのかが分かる。姑息なことを考えているときはそのような顔になり、純粋な心であるならばまっすぐな顔になる。顔がその人の内面を表すとすれば、イエスの顔が異質なものとして生じたということは、イエスの内面も変わったということである。それまでは人間としての内面を持っていたイエスが、人間ではない異質な存在としての内面に変わり、それが顔に現れたと考えるべきであろう。どうして、そのようになったのだろうか。

この山上の変容の出来事はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が報告している。マタイとマルコは、イエスの形姿の変容をメタモルフォーというギリシア語で報告している。ルカは、イエスの顔が異質なものとなったと報告している。ルカはその顔に注目し、マタイとマルコはその姿全体に注目している。いずれにしても、今まで見知っていたイエスとは違う姿になり、顔が異質になったということである。さらにルカは、イエスのモーセとエリヤとの会話の内容が「彼の最期を彼らは語っていた」と報告している。その最期は「エルサレムにおいて満たされようとしている」最期のことだった。これは十字架について語っていたという意味である。

イエスの「最期」である十字架のことを三人は話していた。この「最期」という言葉はギリシア語でエクソドス「脱出」である。この言葉はギリシア語訳旧約聖書の出エジプト記の表題であるから、解放の出来事でもある。イエスのエクソドスは十字架を表していると考えられるから、イエスの十字架の死である「イエスの最期」と訳すことになっている。しかし、エクソドスが脱出、解放の出来事である出エジプトを意味することから考えれば、イエスの最期というよりもイエスが満たそうとしているのは、解放の出来事であり、この世からの脱出である。さらに、エクス(~から出る、~から外れる)とホドス(道)からできている言葉であることを考えれば、エクソドスは道を外れて出ることである。つまり、異質なる道に、いや道なきところに入ることを意味している。道というものが誰もが同じところを歩いてできるものであることを考えれば、道を外れることは、誰もが歩くところではなく、異質なる世界に入ることを意味する。そして、異質なるものと出会うことになる。

モーセも義理の父の羊を飼って、山道を進んでいたとき、燃える柴を見つけて、向きを変えて、道の脇にある燃える柴を見に行ったのである。道を外れることで、モーセは神ヤーウェに出会い、使命を受けた。道を外れることは異質なる存在との出会いを開く異質なる世界への扉であると言えるであろう。それゆえに、イエスとモーセとエリヤが話していたのは、十字架が異質なる世界を開くエクソドスであるという内容だったのだ。

新しい世界は、今までと質的に異なる世界であり、道を外れてこそ入ることができる世界である。その世界を開くお方が道を外れた場所である町の外のゴルゴタという場所で十字架に架けられるイエス・キリストである。それゆえに、イエスの顔の外観が異質なるものとして生じた。イエスの内なるものも異質なるものとして生じている。人間としてのイエスではなく、救い主としてのイエスという内面へと変容を遂げていると考えるべきであろう。

ペトロはそのありさまが栄光の輝きに包まれていたがゆえに、それを留めようとした。しかし、雲が彼らを覆い、雲から声が生じた。「この者は、選ばれし者なるわが息子。彼に聞け」と。雲から生じた声は神の声。ありさまに驚き、ありさまを留めたいと願ったペトロたちに向かって声が生じた。外観、見た目、姿が現れるためには内面がそのようでなければならない。重要なのは内面。外面に現れる根源が重要である。その根源さえ捉えていれば、現れは如何なるときにもそれに応じて現れる。外観だけに捕らわれると、同じようにしていれば良いと思うものである。違うことが起こったときには、その形式は通用しない。すべての場合に対処できるのは、根源的な内面が揺さぶられることなく、すべての現れを貫いているときである。イエスは、この貫く生き方をご自身のものとしておられた。内面が救い主としての内面に変わったとしても同じである。神に従う者としてイエスは十字架を引き受ける。神に従う救い主として引き受ける。ただ、神に従うだけではなく、救い主として神に従う在り方にイエスご自身が変えられた出来事が山上の変容なのである。

イエスはここからご自身の引き受けるべき十字架が新しい世界への扉であることを自覚し、それを開く救い主である異質な者としてイエスは生じた。異質な顔の外観に捕らわれるのではなく、それを現している内面に聞くようにと、雲からの声が生じたのも当然である。イエスによって救われる者は皆、異質な者として生じる。イエスが道を外れたように、モーセが道を外れたように、我々キリスト者も道を外れる。外れてこそ、道の行き先が見えてくるものである。道の方が、神の世界を外れていることも見えてくる。こうして、我々は道を外れたところで、神の世界を生きることになる。この世においては異質なる者として生きることになる。しかし、異質なる者は解放する者、脱出させる者、神の世界へと人々を開いていく者。我々キリスト者は、そのような者として召されていることを忘れてはならない。

召された者は、他者と共に脱出し、解放された世界を作り上げる使命を与えられている。解放された世界は、人間の作った道から外れたところにある世界であるがゆえに、人間の道から解放されることがイエスが満たす救い、エルサレムにおいて満たされようとしているイエスのエクソドスなのである。

このエクソドスへの歩みをイエスはここから始める。この山上から始める。そのお方の内面の声に耳を傾けるようにと雲からの声が言う。イエスの内面が如何なるものであるかは、イエスの言葉に耳を傾けるとき、自ずと分かってくる。聴き続けることで分かってくる。イエスが道を外れてもなお、神がイエスを生かし給う世界が見えてくる。その世界に入る者は、道を外れている者である。この世界が生き難いと感じている者である。この世の権力者ではなく、この世で搾取され、虐げられている者である。富んでいる者ではなく、貧しい者である。高い地位にある者ではなく、低くされている者である。そのような者たちが、道を外れる勇気を与えられるのは、イエスの十字架において。イエスの十字架が語る言葉を聞く者は、道を外れてもなお神の憐れみは注がれていることを知る。神の憐れみはすべての者の上に注がれているが、道を外れてしまう者が憐れみを受け取る。この世で生き難くさを感じている者が道から外れたところにある異質なる世界を見出す。イエスの十字架はその世界を開く扉である。

イエスはここから異質なる世界に入っていく。この世の権力から排斥されて、殺される十字架を通して、ご自身に続く者を受け入れてくださる。我々人間の罪は、誰もが同じところを歩くことでできた道の上にある。誰もが行っているからと行うことによって、我々の罪は増幅していく。この道から外れることを恐れる必要はない。神に従う道はこの世の道とは違う異質なる道なのだから。

イエスは道を外れる勇気を我々に与えるために、ご自身の体と血を聖餐として設定してくださった。イエスの体と血に与り、イエスと同じように異質なる世界を生きる力をいただこう。あなたのために、ご自身を献げてくださったイエスの心がわたしの心となりますようにと祈りつつ、聖餐に与ろう。

祈ります。

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