「熱愛によって」

2019年3月6日(聖灰水曜日)

ヨエル書2章12節~18節

 

ヨエル書においてこう告げられている。「また今、ヤーウェの託宣。戻れ、わたしにまで、あなたがたの心全体において。」と。このヤーウェの言葉に従い、「憐れみ給え、ヤーウェよ、あなたの民の上に」と民が祈り求めたとき、「ヤーウェは熱愛した、彼の地に対して。そして、彼の民のゆえに彼は憐れんだ」と記されている。神ヤーウェは熱愛する神。この神の熱愛に向かって、民は祈り求め、ヤーウェは民を憐れむ。熱愛と憐れみは連動している。神の熱愛が民を連れ戻し、民が苦悩の中で心からの祈りを献げる。献げられた祈りは神の熱愛から発しているがゆえに、神ヤーウェは彼らを憐れむ。熱愛と憐れみが神ヤーウェの働きである。熱愛を受け取る者が心からの祈りを献げる者。そして、憐れみを受け取る者。

熱愛するとは、カーナーというヘブライ語である。それは妬むとも訳される言葉。妬みと熱愛が同じなのである。妬みは、熱情をもって愛するがゆえに起こる。妬まない者は熱愛もない。しかし、妬みによって、人は妬みを起こさせた人を傷つけるものである。妬みを起こさせたのは、自分が熱愛する相手を奪った者である。他の神々に心惹かれてしまったイスラエルを取り戻そうと神ヤーウェは他の神々を妬む。しかし、イスラエルの民に対しては、憐れみが働く。妬みは、愛する相手を奪う者に向かい、憐れみは愛する相手に向かう。熱愛から発した妬みが、愛する相手を奪った者から愛する相手を奪い返す。この奪い返しが愛する相手に対する憐れみである。

しかし、憐れみは他の神々に心惹かれてしまったことを悔いて、神ヤーウェに立ち帰る者の上に注がれる。立ち帰らない者は憐れみを受け取らない。なぜなら、神の最初の熱愛を忘れているからである。立ち帰る者は、神の最初の熱愛を思い起こし、自らを愛してはぐくんでくださった神に相応しく生きてこなかったことを悔いるのである。この悔いること、悔い改めて立ち帰ることは、神の熱愛が彼らに与える憐れみなのである。だとすれば、立ち帰ることも神の最初の熱愛から生まれているのである。神ヤーウェはイスラエルの民が立ち帰ることを求めているからである。

神の熱愛によって民は立ち帰ることになると、神ヤーウェの託宣は告げている。このような神がキリスト者の神でもある。その神を主イエスは「隠れたところにおいて見ておられるあなたがたの父」と語っている。「隠れたことを見ておられる」ではなく、「隠れたところにおいて見ておられる」である。「隠れたところにおいて」と言われているのは、神は隠れたところにおられ、隠れたところにおいてすべてを見ておられるということである。「隠れたところ」とはどこなのであろうか。そこは、我々人間が見て確認できないようなところであり、我々には隠されているところ、隠されていることを表している。神は、我々の心の奥底を見ておられる。我々の心の奥底におられる。そこにおいて、我々自身の心の奥底を見ておられる。我々に確認できるのは、その奥底から表面に出て来たものだけである。奥底に神がおられるのであれば、神が奥底から表面へと送り出すものが素直に現れるとき、我々に確認できるということになる。それが、ヨエル書が語っている熱愛に促された立ち帰りである。ということは、我々の立ち帰り、悔い改めというものは、神の熱愛が送り出したものを我々が素直に受け取り、表すだけだということになる。神の熱愛を素直に受け取る者だけが神への立ち帰りを表す。それが神の憐れみである。

素直に受け取り、表す者は、自らの心の奥底から生じてきた悔いる心、立ち帰ろうとの想いを生きる者である。その人は、その立ち帰り、悔い改めを人に見せることはない。見せる必要もない。すでに憐れみを受け取っているのだから。すでに熱愛を受け取っているのだから。すでに熱愛に促されているのだから。この促しを受け取る者は素直な者。自らの罪を認める者。それにも関わらず、熱愛してやまない神を知る者。この神の熱愛に触れて、悔い改めずにはおられないようにされた者が、隠れたところにおいて見ておられる神を感じ取った者である。この人は、人に見られることを求めることはない。受け取っていない者、神の熱愛を感じることができない者が、自らが神に受け入れられるようにと外面を繕う者である。これをイエスは偽善者と呼んでいる。

このような人には、悔い改めさえも偽善になる。断食という本来純粋で素直な悔い改めの行為を、さも悔い改めているかのように見せかけようとする。その人は、見えるものしか信じない。見えないお方を信じることができない。いや、信じるということは見えないお方を信じること。見えない、確認できないものこそ信じる対象である。見えて、確認できるならば信じる必要はない。そこにあるのだから信じるとは言わない。確認できたと言うのである。見せかける人は何を確認しているのかと言えば、人に認められることを確認しているのだ。さらに、神にも認めてもらおうとしているのであろう。真実の心からの悔い改めは、誰にも認められなくとも悔い改める。神に認められることを求めることなく、純粋に悔い改める。なぜなら、その悔い改めは神の熱愛から発しているからである。悔い改める人は、神に背いた自分を憐れみ、愛してやまない神の熱愛を受け取っているがゆえに、悔い改めざるを得ないのである。悔い改めれば、神の憐れみをいただけると思って、神に見せようとする者は熱愛を受け取っていないことを証ししている。それゆえに、熱愛を獲得するために悔い改めようと考える。これこそが罪人の状態なのである。なぜなら、神の熱愛を信じることができないがゆえに、獲得しようと躍起になるからである。

隠れたところにおいて見ておられる神ヤーウェは、表面に現れたところだけを見ておらるのではない。表面に現れる前の内面の奥の奥を見ておられる。その人自身のうちにいまして、その人を熱愛しておられる。その熱愛を受け取るのは信仰である。隠れたところにおいてわたしを愛してくださるお方の熱愛を受け取るのは信仰なのである。その信仰さえも信仰そのものである神が我々に与えて、熱愛を受け取り、憐れみに包まれるようにしてくださる神の出来事である。この出来事は我々からは生まれない。神が生み出す。それが、我々が地の塵に過ぎないということなのである。

塵に過ぎない者が何を生み出すことができようか。塵に過ぎない者が自分から悔い改めることなどできようはずはない。塵に過ぎない者が神に与えるものなど持ってはいないのだから、神が我々に熱愛を受け取らせ、立ち帰らせ、受け入れ給うのである。これが神の憐れみである。この憐れみに身を委ねる者は、隠れたところにおいて見ておられる神を知っている者。神の熱愛を受け取っている者。神ゆえに今があることを認めている者。塵に過ぎないこのわたしを憐れみ、救おうとしてくださる神の熱愛がわたしを悔い改めさせてくださる。この熱愛の現れがキリストの十字架である。

キリストは神の熱愛ゆえに十字架を引き受け給い、ご自身を我々に与え給うた。神の熱愛がキリストを十字架へと導き給うた。神の熱愛としての十字架を成就し給うた主イエス・キリスト。このお方こそ、我らの主。我らを救い給うお方。我らを悔い改めへと導き給うお方。このお方の十字架の徴を額に受け、塵に過ぎない自分自身を省み、四旬節の歩みを祝福していただくように祈ろう。吹き飛ばされそうな塵を熱愛し給う神に感謝して。

祈ります。

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