「再び見る」

2019年3月17日(四旬節第2主日)
ルカによる福音書18章31節~43節

 

「その場で、彼は再び見た。そして、彼は彼に従った、神を栄化して」と最後に記されている。「たちまち見えるようなり」と訳されている言葉は、「その場で再び見た」が原意である。その場で見えるようになったのだが、それは「再び見る」という言葉である。この言葉はアナブレポーというギリシア語で、アナ「再び」、「上へ」という接頭辞が付いたブレポー「見る」という言葉である。それゆえに、「再び見る」や「見上げる」と訳される言葉である。彼は「再び見た」のだから、以前見えていたのに見えなくなった人なのである。彼は自分が見えなくなっていることを知っているがゆえに、「わたしがあなたに何を行うことをあなたは意志するのか」とイエスに問われて、「再び見ることを」と願った。見えていないことを知っているのは、この目の見えない人だけであった。弟子たちは見えていないこと、イエスを理解していないことが分からなかった。それゆえに、見えていない人の方が再び見るようになった。自らの現状を理解していない者は何を願って良いのか分からない。願うべきことが分からない。自らの欠乏を自覚していない。自らに何が必要なのかが分からない。弟子たちは、自分たちが理解できていないこと知らない。イエスの語られた言葉たちは彼らには隠されてしまっていたからである。隠されてしまっていることは、それ自体が隠されてしまっているがゆえに隠されてしまっていることさえも分からないのである。

弟子たちのイエスへの無理解の根源には、自己の現状への無理解がある。自己を正しく把握していないならば、他者を正しく把握できようはずはない。自己の位置を把握できていないのだから、他者との距離も把握できない。これが弟子たちの無理解の現実であり、罪人の無理解の現実である。一方、目の見えない人がイエスに求めたのは「再び見る」ことであった。再び見ること、見上げることは自己認識に基づいていると言える。自己認識が誤っているがゆえに、人間は再び見ることに至らない。見えている、分かっていると思い込んでいることが、本当にそうなのかを自らに問うこともない。自らの力を過信している。それは再びを呼び求めることがない心の状態である。上なるお方に呼び求めることもない。その心は上に向かわず、自分のうちにも向かわず、見たいことだけ見る。見るべきものを見せられても見ない、見ようとしない。これが弟子たちと我々の問題である。

我々も弟子たちも見ようとしていないことを知らない。見えていないことを知らない。見るべきものが分からない。どれだけ見ても見えない。これでは悔い改めることさえできない。このような弟子たちが願い求める目の見えない人を排除しようとする。見えないことを知っている人が求めることを弟子たちは見ようとしないがゆえに受け止めることもできない。彼らは神の憐れみを知らない。

目の見えない人は憐れみによって再び見ることを求めている。なぜなら、自分が見えなくなったのは神の業であると信じているからである。そのような自分が再び見るようになるとすれば、自分の功績ではなくただ神が憐れんでくださることしかないと信じているからである。彼は自らの目が見えなくなったのは自らの罪ゆえであると信じている。罪の自覚があるがゆえに、神の憐れみを求めるしかない。自らが神に何かを差し出して、取引することはできないと知っている。自らが罪を犯したことも知っている。それゆえに、憐れみを乞い願う。それゆえに、人々や弟子たちが黙らせようとしても黙らなかった。彼の求めは切実だった。このような者の上に、神の憐れみが注がれる。しかし、このように切実に願い求めれば叶えられるのだと思ってはならない。この人はこの人として切実に、誠実に、真剣に願い求めたのだ。こうすれば叶えられるなどと計算してはいない。計算して行う時点で、神の憐れみの本質を知らない。神の憐れみは神ご自身の憐れむ心から溢れ出る。神ご自身の憐れみは神ご自身のうちから溢れ出る。それを人間が起こすことなどできない。それゆえに、目の見えない人は叫び続けるしかない。

方法論に堕する人には、神の憐れみは理解されず、憐れみを獲得するために、執拗に願えば良いと考える。しかし、しびれを切らして、神を呪うことにもなろう。方法論に堕している人は、憐れみを獲得することができると思い込んでいるからである。憐れみは獲得することはできない。ただ、神ご自身の意志によって注がれる。これを人間の行為が左右することはできない。人間の行為が左右するとすれば、神の憐れみではなく、人間の功績となる。憐れみはあくまで神ご自身の意志である。

これをイエスは改めて問うた。「わたしがあなたに何を行うことをあなたは意志するのか」と。これは目の見えない人の意志が実現することではないのか。いや、憐れみの中に入った人に、イエスは問うているだけである。憐れみ中に身を投げ出した人に、その人のうちに神が起こし給うた意志を問うているだけである。しかも、その人が行うことではなく、イエスが行うことが何であって欲しいと意志するのかと。それは、目の見えない人が自らの現状を如何に自覚し、自らの罪を如何に乗り越えようとしているのかを問うイエスの言葉である。目の見えない人は「わたしが再び見ることをあなたが行うこと」だと答えた。見えていない現実を再び見る現実にしていただくことだと答えた。見えていない現実が把握されていてこそ、見える現実の中で見るべきものも把握されている。再び見るとはそういうことである。彼は何も見ていなかったことを自覚した。彼は自覚した、自らの罪を、自らを変えてくださるお方を見ていなかった罪を。神を仰いで、上を見ることもしていなかった自らの罪を自覚した。彼は再び見たあと、神を栄化して、イエスに従ったと記されている。これがこの人が求めた「再び見る」べき神の現実だった。

「再び見る」ことを求めたこの人は、「上を見る」こと、「見上げる」ことをも求めたと言える。そして、自らの上におられる神が見えるようになった。神の憐れみが見えるようになった。神の憐れみの心を受け取った。神を栄化するとはそういうことである。一方、憐れみを知らない者は、憐れみを受け取らない。罪を知らない者は憐れみを求めない。自らを知らない者は、憐れみを求めるべきお方を仰ぐことができない。そして、救われることはない。

目の見えない人、貧しい人、悲しんでいる人、苦しめられている人が幸いなのは、憐れみを乞い願うお方を仰ぐことができるからである。わたしを造り給い、生かし給うておられるお方が憐れみゆえに愛し、はぐくんでくださることを知っているからである。憐れみがなければ、いっときさえも生きていることができないと知っているからである。生きていることは、神の憐れみであると知っている。憐れみが注がれているがゆえに神に感謝すべきだと知っている。神を栄化すべきだと知っている。そのような人が神の憐れみを求める。それだけである。

我々は、この目の見えない人なのか。彼を黙らせようとする人なのか。イエスを侮辱し、むち打ち殺害する人たちと同じなのか。そう預言するイエスの言葉を理解しない弟子たちと同じなのか。自らの罪を知らない。見ようとしない。見えていないことを知ろうとしない。これが我々の罪。イエスを十字架につける我々の罪である。

上を見ること、見上げることを求めることなく、自分の内に住む罪に支配されているのが我々である。そのような者は、再び見ることはない。それでもなお、そのような者たちに殺害されたイエスは再び立ち、復活する。このお方が復活するのは、見えない我々を救うためである。見ようとしない我々の目を開くためである。我々が再び見るようになるためである。四旬節はこのお方の御受難が我々の罪のゆえであったことを覚える期節。この期節を通して、我々は再び見ることを乞い願おう。神の憐れみを乞い願おう。我々が願わなくとも、イエスは我々を憐れんでくださっている。ご自身の体と血を与えてくださっているイエスは、我々を憐れみ、再び見るようにしてくださるお方。このお方を仰ぎ見る信仰を新たにしていただこう。

祈ります。

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