「地への信頼」

2019年3月24日(四旬節第3主日)

ルカによる福音書13章1節~9節

 

「むしろ、あなた方すべての者が悔い改めなければ、同じ仕方であなたがたも滅びるであろう」とイエスは言う。「悔い改め」を求めるイエスが、たとえを語る。このたとえは「悔い改め」を求めるたとえというよりは、悔い改めの土台を語るたとえである。悔い改めが生じるために、何が必要なのかを語っているのが、ぶどう園に植えられたイチジクの木のたとえである。

このイチジクの木はぶどう園の主人によってこう言われている。「何のために、地を無効化しておくのか」と。実を結ばないイチジクの木が地を、つまり土地を無効化しているとぶどう園の主人は言う。無効化しているということは、働かないようにしているという意味である。地が働かないので、無駄に農地が塞がれている。だから、イチジクの木を切り倒して、ぶどうの木を植えた方が効率的であろうとぶどう園の主人は言ったのだ。実を結ばないイチジクの木だから、地は無効化され、何も生み出さない。これではせっかくの地が無駄になっている。働かなくされているとぶどう園の主人は言うのだ。

主人の求めに対して、ぶどう園の園丁は答えて言う。「彼女の周りをわたしが掘って、わたしが肥やしを投げ入れます」と。そして言う。「来年へと彼女を赦してください」と。この言葉は「来年」という意味であるが、「来たるべき日々へ」、「来たるべきことへ」ということである。園丁は、「来たるべき日々」、「来たるべきとき」、「来たるべき事柄」へと期待しているのである。

すぐに裁いてしまおうとするぶどう園の主人に向かって、「彼女を赦してください」と言う園丁。彼は、イチジクの木に期待しているのであろうか。もちろん、肥やしを投げ入れるということはイチジクの木が肥やしをもらって実を結ぶということのように思える。しかし、肥やしは地と結びついて働くのであり、地が働いていなければ肥やしをやっても同じことである。究極的には、この園丁は地に期待しているのである。地が働いて、栄養を根に供給し、イチジクの木をはぐくむことを期待しているのである。園丁の期待は、地への信頼に基づいている。そして、「悔い改め」に同定されている「実を結ぶ」ことは、地への信頼を持っている園丁の信頼に土台があると言えるであろう。

「実を結ぶ」ことが「悔い改め」であるならば、「悔い改め」はイチジクの木自体からは生じないということである。イチジクの木をはぐくんでいる地が実を結ばせるのである。イエスが他のたとえでおっしゃったとおりである。地が働いているがゆえに実を結ぶ未来も生じる。地が働いていなければ、園丁も肥やしを投げ入れるとは言わなかったであろう。それゆえに、地は働いている。そこにこそ、イチジクの木が実を結ぶ未来は宿っているのである。ただし、イチジクの木が地の働きを受け取るということが必要なのであるが、これを「悔い改め」の過程としてイエスはたとえているのであろう。そうであれば、「実を結ぶ」ことである「悔い改め」はイチジクの木が地の働きを信頼して受け取ることによって生じると言える。これが「方向転換」を意味する「悔い改め」なのである。

「悔い改め」とは自分が悪かったと悔いて、方向転換することである。何が悪かったのか。自分が受け取る方向ではなく、獲得する方向で生きていたことが悪かったのである。イチジクの木は地の働きを受け取らず、他者のために実を供給することをしなかった。これが罪というものである。受け取る方向と獲得する方向は正反対。「悔い改め」はこの正反対の生き方へと方向転換することなのである。受け取ることができないのは、すべてを自分が獲得する方向で生きているからである。与えられているにも関わらず、与えられていないかのように思い、自分で獲得するように生きる。その結果、すべてを自分のために蓄積し、他者へと供給することがない。さらに、他者のものを奪うこともそこから生じる。こうして、地を無効化している状態が生まれるのである。地を無効化しているとは、働かなくしているのだが、その地が他者のために用いられないようにしていることである。これをぶどう園の主人は批判した。他者のために生きることができないならば、切り倒せと言うのである。自己満足の世界に生きているイチジクの木だと言うのである。そこから抜け出すにはどうしたら良いのか。イエスはたとえを語ることによって、この抜けだしを促す。

イチジクの木は自分から抜け出すことができない。自己満足から抜け出すとすれば、園丁が「彼女を赦してください」と述べるその心を受け取るしかない。園丁は、イチジクの木のためにぶどう園の主人に懇願しているのだ、「彼女を赦してください」と。本来ならば、イチジクの木がぶどう園の主人に言うべきであろう、「わたしを赦してください」と。この言葉を、園丁が代わりに言うのだ。イチジクの木が言えないのだから、園丁が代わりに言う。この園丁は地への信頼に生きている。地が働いていることを信じている。それゆえに、肥やしを投げ入れてみると言う。こうして、園丁に守られ、あと一年の猶予を与えられる。それは裁きの猶予ではなく、希望が芽生えるための猶予期間である。「実を結ぶ」であろう希望がはぐくまれる一年を園丁は主人に求めた。こうして、イチジクの木は「悔い改め」のときを与えられた。これがイエスのたとえである。

だとすれば、この機会を生かすのは、イチジクの木が園丁の心を受け入れて、受け取る生き方に方向転換することである。園丁が主人に求める「赦し」は赦されてそれで終わる赦しではない。悔い改めへと導かれるようにという期待と希望に開かれるための「赦し」である。従って、我々キリスト者が神の赦しをいただいているとしても、それで終わってはならないという戒めでもある。我々が赦されているのは、「悔い改め」への希望に生きる猶予期間なのである。

しかも、この猶予期間を我々に供給するために、イエス・キリストはあの十字架を負ってくださったのだ。キリストの十字架の心は、この園丁が言う「来年へと彼女を赦してください」という心なのである。この希望に生きる期間を我々に与えるために、土を掘り、肥やしを投げ入れてくださったイエス・キリスト。このお方の十字架こそが、土を掘ることであり、肥やしの投げ入れである。園丁の労苦である。イチジクの木のために労苦する園丁の姿こそ、イエス・キリストの十字架の苦しみなのである。

このお方は園丁が地への信頼に生きたように、神への信頼に生きている。地への信頼がなければ、園丁は土を掘ることも肥やしを投げ入れることもしなかったであろう。地への信頼があるがゆえに、園丁は労苦を引き受けた。地がイチジクの木に栄養を供給し続ける働きが実を結ぶ悔い改めへと必ず導くと信じるがゆえに、園丁は労苦を引き受けたのだ。キリストの十字架は、我々人間が悔い改めて、神の力に信頼して生きるようになる希望を確保する神の憐れみの業である。この憐れみによって、我々は生きる希望を与えられる。悔い改めて、方向転換して、地への信頼、神への信頼に生きる方向へと転換して生きることが可能となる。

我々は悔い改めることもできない人間であることを今日覚えよう。悔い改めることさえできない我々を神は悔い改めに導く働きをなしてくださっている。我々はこのお方の働きを受け取るだけ。受け取りさえすれば、我々は必然的に悔い改め、必然的に造り替えられる。生きる方向が変えられるからである。

四旬節のとき、我々は今日イエスが語ってくださったたとえを自らのこととして受け入れ、生きて行こう。イエスの心を受け取り、生きて行こう。イエスが信頼する父なる神の御力が我々を造り替えてくださることを信頼して、神の前にひれ伏そう。あなたのために労苦してくださるお方の心が、あなたをまず受け入れてくださっている。あなたのために苦しみ給うお方の憐れみがまずあなたを包んでくださっている。このお方の心と、神の力に信頼する道へと方向を転換し、歩み続けよう、救いが完成するその日まで。

祈ります。

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