「自分を生きる」

2019年3月31日(四旬節第4主日)

ルカによる福音書15章9節~32節

 

「なぜなら、このわたしの息子は死者だった。そして、再び生きたのだから。彼は失われていた。そして、彼は見出されたのだから」と父親は兄に言う。「死者」が「再び生きた」、「失われていた」者が「見出された」と言う。それはあの弟だと言う。しかし、弟だけが「死者」であり、「失われていた」のであろうか。兄もそうではないのか。兄は父にこう言っている。「これほど長い年月、わたしは奴隷となっていた、あなたに。そして、決して、あなたの戒めを通り過ぎなかった」と。兄は自分らしく生きることができなかった。弟が出て行ったために、自分を父に奴隷化して仕えた。父の戒めを通り過ぎて無視することは決してなかった。彼は真面目であるとは言え、ここで父への不満を述べていることを考えれば、相当に我慢していた。自分のしたいことをするのではなく、父の戒め、父の求めることに忠実に従った。兄は自分を生きることができず、父の求める生き方に奴隷のように従った。しかし、結局、弟の勝手気ままな姿を父が叱りもせずに受け入れると、それまでの不満が爆発した。我慢していれば爆発する。心から従っているならばそうではないであろう。我慢して自分を抑えて、父の奴隷になっていたのだから、不満は溜まっていた。自分を失ってしまうほどに彼は父の顔色を伺っていたのであろう。

一方、弟も金があればあるだけ、好き勝手なことをして過ごした。彼も自分を失うほどに、金に奴隷化されていたと言える。金が彼を自堕落な生活へと誘い、彼は自分を失った。そして、究極的な困窮において、彼は「自分へとやって来た」、つまり我に返ったと記されている。彼はようやく本来の自分のところへと戻って来たのである。自分を失っていた弟は、究極的な困窮において自分を見出したということである。兄と弟は、二人とも死者であり、失われていた。そして、彼らを見出したのは父である。そうすると、このイエスのたとえは、父と二人の息子たちが自分を回復したという物語なのではないのか。「見出された」と言われている息子を見出したのは父だからである。さらに、兄はようやく自分自身の不満を父にぶつけることができた。こうして、父と二人の息子は自分を生きることができるようになった。イエスは三人三様に自分を回復したことをこのたとえで語っている。この三人は誰を指しているのか。

父が神であるならば、おかしいのではないかと訝る人もいるであろう。しかし、神の救いは人間が救われることなのである。人間が救われることによって、人間を造った神ご自身が救われる。そうでなければ、神が人間を執拗に追い求めることもないであろう。ご自分が造った人間が自分を失って、死者のようになっている。神にとって、これほど悲しいことはない。自分らしく、自分自身を生きて欲しいと願って造った人間が、神の似姿であるところから離れて、自分を失い、死んでいる。似姿であるがゆえに、神にとってご自分が失われ、死んでいるようなものである。それでも、父が待っていたように、神も待つしかない。なぜなら、人間が自分自身を見出して、自分自身を生きるようになることは、神が無理矢理連れ戻すことでは実現できないからである。失われた羊のたとえや失った銀貨のたとえでは、羊や銀貨自身が戻ることはない。連れ帰る持ち主の愛による悔い改めが示されている。そして、このたとえでは自分自身を生きる悔い改めが語られている。

この父は弟が心配であったが、彼を探しに出かけることなく、家の前で待ち続けた。探しに行って、無理矢理連れ戻すのではなく、父はただ待っていた。弟が自分から戻ってくることを願っていたからである。そうでなければ、結局父の奴隷のように連れ戻されるだけだからである。自分から戻ってきた弟を父が喜び迎えたのは当たり前である。弟が自分を見出して、待ち続けた父の愛を受け取ってくれたからである。ようやく自分を生きるようになった弟を喜ぶのは当たり前である。

他方、兄はどうであろうか。父は、兄が不満をぶつけてきたことによって、ようやく兄に言うことができた。「あなたはいつもわたしと共にいる。わたしのものすべてはあなたのものである」と。兄は父の許可を受けて、羊を屠らなくても良かったのである。食べたければ食べることができたと父は言っているのだ。それなのに、兄は父の許可がなければ何もできないようになっていた。兄は、どうしてそうなってしまったのだろうか。父に気に入られたかったからである。父の気に入る人間であることが彼の喜びだと思い込んでいたからである。それゆえに、彼は自分を父の奴隷としていた。しかし、父は彼のために祝宴を開くことはなかった。兄もいまだ自分を生きていなかったからである。

兄は父を恨んでいたのか。いや、自分を認めて欲しかったのだ。兄は、父に認められることが自分を生きることだと思っていた。認められるために懸命に頑張った。それなのに、放蕩の限りを尽くして、お金を使い果たした弟が帰ってくると、父は彼をそのままに受け入れ、子牛を屠って、宴会まで開いた。それはないだろうと兄は思ったのだ。これだけ長い間、父の気に入るように奴隷のようになって仕えてきたのにと思った。当然である。しかし、父が「あなたはわたしと一緒にいた」と言ったとおり、父は兄を認めていたのだ。兄は、父と一緒にいてくれたと認められていたのだ。それが分からなかった。弟がお金に縛られていたと同じように、兄も、父ではなく、父の持っているものに縛られていた。何はなくとも、父と共にいるということが幸いだったはずなのに、それが分からなかった。弟も分からなかった。弟が自分を見出したときに、父と共にいる幸いを思い起こしたと同じことなのである。兄に向かって「あなたはわたしと共にいた」と言ったのは、父と共にいる幸いを見出して欲しかったからなのである。

父もまた、自分自身を失って、死者のようになっている息子たちが戻ってくることを願っていた。親は親で、息子は息子でそれぞれに相手を見失い、自分を失っていた。親も子も、共にいることだけで幸いなのに、その幸いが失われていた。イエスがこのたとえを語ったのは、悔い改めによって何が生じるのかを教えるためである。神との正しい関係が生じるということを教えるためである。神との正しい関係に入ることが自分を回復することである。本来の自分自身が失われているがゆえに、何を求めても、何を行っても、自分を生きることなどできはしない。本来の自分がどこにいるのか。誰と共にいるのか。それだけが我々が自分を生きるために必要なことなのである。

我々は、自分自身を生きることを求めながら、自分自身を失うように生きてしまう。それが我々罪人の生き方である。財産を求め、認められることを求め、自分自身が誰と共にいたいのか、誰と共にいることが幸いなのかを見失っている。認められることを求めなくとも、父が認めてくださっている。お金を使わなくとも、父が受け入れてくださっている。すべてをご存知である父なる神が、あなたを求め、あなたと共にいることを喜んでくださる。如何に駄目な人間だと他者に蔑まれてもなお、父なる神はあなたと共におられる。あなたを愛してくださる。あなたを造ったお方なのだから。このお方を求めつつも、違うものに惹かれてしまう罪人である我々を待ち続けてくださる父なる神。あなたが自分を生きることができるようにと待ち続けてくださる父なる神。それがあなたの神。イエス・キリストの父なる神である。

キリストは父なる神の愛をあなたに伝えるために、あの十字架を負ってくださった。父なる神の痛みを伝えるために十字架の苦しみを耐えてくださった。待ち続ける父の心を伝えるために、あなたに赦しを与えてくださる。赦しを通して、与えられた猶予期間に、あなたが自分を見出すことができるようにと耐え忍んでくださる。キリストはご自身の体と血を与えることを通して、あなたが神の似姿を回復するように導いてくださる。あなたのうちに神の似姿が回復されるように導いてくださる。今日も感謝していただき、十字架の主を見上げて進み行こう。

祈ります。

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