「現前する意志」

2019年4月7日(四旬節第5主日)

ルカによる福音書20章9節~19節

 

「そして、彼は賃貸した、それを農夫たちに」と言われているが、最後には「そして、彼は与えるであろう、そのぶどう園を、他の者たちに」と言われている。賃貸した最初の農夫たちが相応しくなかったために、最後には「他の者たちに与える」という贈与が語られている。賃貸と贈与とはまったく違う事柄である。賃貸は契約であり、贈与は一方的な恵みである。ぶどう園を造った主人は、まず賃貸して、その農夫たちが相応しいかどうかを確認したのだろうか。相応しくないことが明らかになったとき、相応しい農夫たちに「与えるであろう」と言われているのである。

契約としての賃貸が表しているのは、イスラエルと神ヤーウェとの間の契約であろう。しかし、最後に語られている贈与は異邦人たちに恵みとして与えられるであろう約束である。イエスのたとえは、イスラエルが契約を破ったがゆえに、恵みを受け取る相応しい者たちに与えられる贈与としての約束を語っている。賃貸と贈与を切り分けるのは、イエスの十字架刑を表すぶどう園の主人の息子の殺害である。

イエスはこのたとえを通して、イスラエルとの契約と背信、そして異邦人への贈与を語っているが、それは神の意志が失われていないということである。神の意志は現前する意志であり、人間たちが相応しくないとしても相応しい者たちに贈与される意志なのである。その場合、贈与される者はただ受け取るだけの者である。たとえの中では、ただ受け取るだけの者については何も語られていない。主人の意志を退け、自分たちの意志を優先した農夫たちが語られている。たとえ、主人の意志が農夫たちによって退けられたとしても、主人の意志はそこに現前し、貫徹されるということである。この現前する意志こそが我々人間を救う神ご自身なのである。

そうすると、我々人間の意志は神の意志に背くことしかできない意志だということになる。マルティン・ルターが「奴隷的意志について」において語った通り、我々人間は自己意志によって、神に従わない方向に生きることしかできないということである。これが、人間が連綿と受け継いでいる原罪である。この原罪から逃れられる者は一人もいない。我々人間が自分の意志を優先するとき、我々は常に罪を犯している。善を行っていると思っているが悪を行っている。

罪深い人間は、自分で善と悪を判断し、善を行うことができると思い上がる。その際、彼が判断する善は自分の利益になることである。賃貸契約を交わしたにも関わらず、労働の成果を主人に差し出すことを拒否した農夫たち。主人の下僕を袋だたきにして追い返し、息子は殺害した。自分たちの労苦を主人に只で持って行かれることは主人の悪であり、自分たちの労苦を守るために主人の息子を殺害することは善であると判断した。農夫たちの意志は殺人さえも善だとする意志である。農夫たちの意志と主人の意志とが対立している。どちらの意志が絶対なのか。主人の意志が絶対なのである。それゆえに、最終的には主人の意志が貫徹され、相応しい者たちに贈与される。この現前する意志が、詩編118編22節で語られている「隅の親石」である。

隅の親石となったのは、家造りたちが捨てた石であった。家造りたちは専門家であろう。ところがそのような者たちが捨てる石が、最後に家をしっかりと組み合わせる親石となる。捨てられる石は、形も悪く、見栄えは良くないのかもしれない。ところが却ってそのような石こそが家の石組みを強固にする親石となると歌われている。最初に捨てられた石は、捨てられてもなお最後まで残り続け、最終的に家を完成させる石となる。捨てられたところで現前している神の意志と同じである。それゆえに、その石の上に人が落ちれば打ち砕かれ、その石が人の上に落ちれば押しつぶされると言われている。現前する神の意志の絶対的力が語られ、留まり続ける神の意志が語られている。人間の意志は打ち砕かれ、押しつぶされる。そのとき、神の意志の絶対的必然性が完成する。これが十字架と復活の出来事なのである。

では、人間の意志が悪であり、神の意志が絶対的に善であるならば、人間は何もできない木偶の坊にならなければいけないのか。神の操り人形となるべきなのか。そうではない。神は、我々人間が善である神の意志に従うことを願われた。それは、善しかできない木偶の坊ではなく、善と悪の中で善を選択する意志を持つことを願われたのである。そこには、人間の意志を尊重する神の意志がある。善と悪が目の前に置かれているとき、神の意志である善を選択することは人間が意志をもって選択する。これが神の意志に従うという信仰の従順である。

ところが、自分の利益のために悪を選択したアダムとエヴァの堕罪の出来事によって、我々人間は悪しか選択できないようになってしまった。むしろ悪の木偶の坊となってしまったのだ。これが原罪である。この原罪によって、我々は自分の意志を実行するとき、常に自分の利益を追求し、悪を行ってしまう。このような人間が神の意志を認め、進んで従うようにと、神はモーセを通して十戒を与えた。ところが、その十戒さえも自己の利益追求の手段としてしまったのが原罪を負った人間なのである。この原罪から抜け出すことは人間にはできない。神の意志が分かっていても、自己の利益を追求する手段としてしまう。十戒を守れば救われるのだという自己の救いのための善の実行にしてしまう。十戒に従って善を実行しているにも関わらず、悪を実行してしまう。それが原罪を負った人間の哀れさである。

たとえ悪と言われようとも善を実行しているのだから、悪を行うよりも良いのではないかと考える人もいるであろう。ところが、善は行為によって決まるのではなく、心の根によって決まるのである。それゆえに、イエスが別の福音書で語っているとおり、悪しき思いを持っているということが悪なのである。たとえ、善に見える外観を取っていたとしても、心の根が悪であるならばいずれは化けの皮がはがれる。もちろん、だからと言って、心の根が良いのだから、善を行わなくても良いとも言えない。心の根が善であるならば、必然的に外に現れざるを得ないのだから、外に現れない心の根などというものはない。心の根を見ておられる神の前では、原罪は隠しようもないのである。

このような罪人が自分の意志で善を行うことなどできはしない。神の意志に従うことなどできはしない。悪しか行い得ない人間であることを認めることから始めなければ、我々は神の意志に従うことへと導かれることもない。我々罪人が神に従って生きるなどということは不可能なのである。それゆえに、キリストは十字架を負ってくださった。キリストは神の意志に従い通して、十字架を負ってくださった。キリストはゲッセマネで祈ったとき、神の意志に従うことを善と認めておられた。「父よ、もし、あなたが意志するならば、この杯を過ぎ去らせてください。しかし、わたしの意志ではなく、むしろあなたの意志が生じますように」とキリストは祈った。この祈りに基づいて、十字架を負われたのである。

我々人間は、このお方の祈りに導かれて、負わされる十字架、降りかかってくる苦難を負うのである。現前している善なる神の意志は失われることなく貫徹される。我々は神の意志に従って救われる。自らの意志を善だと思い込み、実行するとき、我々は農夫たちのように悪を実行してしまい、贈与である神の意志は他の相応しい人たちに与えられることになる。

キリストはこのような哀れな罪人のために、十字架を負ってくださった。我々が救われるためには、十字架のキリストと共に死に、復活のキリストと共に復活する必要がある。そのために、キリストは洗礼を設定してくださった。自己意志の葬りを実現するのは洗礼という恵みなのである。

さらに、洗礼を受けた者たちのうちにキリストご自身が形作られるようにと聖餐を設定してくださった。聖餐を通して、我々はキリストと同じ形に変えられていく。キリストと共に死に、共に生きるために、今日も恵みに与ろう。祈ります。

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