「主の必要」

2019年4月14日(枝の主日)

ルカによる福音書19章28節~48節

 

「彼の主が必要を持っている」とイエスは弟子たちに言うように命じ、弟子たちはイエスに言われたとおり語った。この言葉は弟子たちが語った言葉ではなく、イエスが語った言葉である。弟子たちはイエスの言を人々に語った。イエスの言は神の言であり、語られたことを実現する言であることが、ここで示されている。しかし、「彼の主が必要を持っている」という言葉が語っている「主の必要」とはいったい何であろうか。

イエスが乗るために必要だということであろうか。イエスが柔和な王としてエルサレムに入城するために必要だということであろうか。あるいは、イエスが主の必要を満たす十字架を象徴しているのであろうか。イエスの十字架はイエスご自身にとっては必要でも何でもない。むしろ、避けたいことであった。それはゲッセマネの祈りにおいてイエスご自身が神に祈っていることである。しかし、神の意志が生じるようにとイエスは祈った。それは、「わたしが十字架に架かることが神の意志であり、わたしが十字架に架かる必要があるのであれば、そうしてください」という祈りであった。従って、ここでイエスが言う「彼の主の必要」とは「彼の主」である神の意志が実現するための「必要」ということである。

子ロバは彼の主である神の必要に用いられる存在である。それはイエスの必要というよりもイエスの父なる神の必要ということであろう。その必要を語るイエスの言葉は神の意志を代弁した神の言である。イエスの言をそのままに語った弟子たちの言葉も神の言である。それゆえに、人々はその言葉に従って、子ロバの綱が解かれることを受け入れたのである。神の言は語られたことを実現し給う力ある言である。しかし、すべての者が神の意志に従うわけではない。すべての者が神の言に聴き従って、神の意志を実現するために働くわけではない。神の言が語られても、神の言に反抗する意志が人間の意志だからである。それでもなお、神の意志は人間の意志による反抗をも必然として受け入れ、それを必要に変え、ご自身の意志を実現し給う。これが十字架の出来事である。従って、十字架は神の意志の実現を妨げる人間の意志が作り出したものでありながら、神は人間の反抗を受け入れ、必要のために備えて、ご自身の意志を実現してしまうのである。これによって、神の意志は絶対的に実現してしまうのである。

「必要」という言は「欠乏」を意味する。欠乏しているがゆえに必要なのである。人間の意志によって、神の意志が妨げられるとき、欠乏が生じるが、神の予知と予定によってその欠乏を満たす備えが行われている。その結果、如何なることになろうとも、神の意志は実現してしまう。

十字架という人間の意志が神の意志を妨げようとした出来事さえも、神はすべての必要を備えて、ご自身の意志の実現に向けて動かし給う。子ロバの必要もその神の意志の実現に向けて備えられた必要なのである。では、子ロバはどのように必要だったのだろうか。イエスが柔和な王としてエルサレムに入城するために必要だったのか。直接的にはそうである。しかし、子ロバを用いる主の必要はイエスご自身が神の必要のために用いられるお方であることを指し示すことである。つまり、十字架を指し示すことが子ロバを用いる主の必要なのである。

子ロバは、「縛られている」と記されている。そして、「未だかつて、人間たちの誰もその上に座ったことがない」とも記されている。これが十字架の意味である。罪に縛られている存在を解放することが十字架の働きである。さらに、未だかつて誰も解放の座に座ったことがないということも語られている。イエスの十字架は、未だかつて誰も解放したことがない存在を解放するのである。

人間は自分たち自身で自らを解放できると思い込んできた。自らを救い得ると思い込んできた。しかし、誰も自分自身を救い得なかった。なぜなら、縛られている子ロバを解いたのは、子ロバではなく、親ロバでもなく、弟子たち人間だからである。つまり、人間を罪の縛りから解くのは人間ではないということである。人間を解くのは人間を越えたお方、神でなければならない。人間は自分で自分の縛りを解くことはできないし、他者を解くこともできない。自分の意志を捨てて、神によって解かれることを受け入れるとき、神の必要に用いられる。神の意志に従うものとされる。それが、我々が子ロバにおいて聞くべき、神の言である。

イエスはこの主の必要をご存知であった。それゆえに、弟子たちに命じた。そして、ご自身も神の必要に用いられることを受け入れることにおいて、子ロバの上に座られた。イエスの十字架への覚悟が現れている出来事である。そのイエスが、今日の日課の41節以降において、エルサレムへの嘆きを語る。この嘆きは、神の必要を知らず、神の意志を拒否したエルサレムへの嘆きである。イエスはエルサレムに対して、こうおっしゃっている。「あなたの訪れのときを認識しなかった」と。これは神がもたらし給う時カイロスがあなたに訪れることを認識しなかったという意味であるが、神の時カイロスには神の必要が内包されているがゆえに、神の必要とするときに従わなかったという意味になる。

さらに、エルサレムの神殿が「強盗の巣」になってしまっていることも人間の意志が優先された結果である。エルサレムの神殿は「祈りの家」であった。ソロモンも神殿建築の際にこう祈っている。「あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください」と。祈りの家とは、人間が自らの意志とは反対の神の意志を聞き、神の意志に従うことができるように悔い改め、神に助けを祈り求める場所である。神殿とはそのために神によって建てられた家であった。神が人間の祈りを聞くために必要な場所として神殿を建てたのである。ところが神のものを盗む強盗のような人間の巣窟にしてしまったのは、人間の意志である。人間の意志は悪しか行わない。それゆえに、主の必要を知ろうとしない人間の意志の巣窟となってしまっているとイエスは神の言を語る。この神殿もいずれ神によって破壊されるであろうとイエスは預言する。直接的にはイスラエルの敵がそれを行うのだが、根源的には神が行い給う。

イエスはエルサレムに入城することを通して、主の必要を生きるとはどういうことかを示してくださった。十字架の意味を示してくださった。それは、群衆の讃美を止めさせようとするファリサイ派に対しておっしゃる言葉にも現れている。「この人たちが沈黙しようとも、石たちが叫ぶであろう」と。神を讃美することは人間が主の必要を生きる在り方である。神の恵みに対して、人間は讃美せざるを得ない。主の必要を生きる人間は必然的にそう生きるのである。自分たちの意志ではなく、神によって叫ばされる讃美を歌う群衆は、主の必要に仕えている。この群衆の讃美はまた、負わされた苦難を負い、罪に縛られていた人々を解放する十字架をも指し示している。この十字架を仰ぐことによって、我々人間は神の必要に仕える生き方を知る。自らが罪に縛られている人間であることを知る。罪から解放してくださるイエス・キリストを知る。そして、キリストと共に主の必要を生きるであろう。

今日から始まる聖なる週、主の必要に仕える信仰の従順を求めて、祈りつつ歩んで行こう。主イエス・キリストはご自身の十字架の歩みを通して、我々に解放を与え給う。我々を主の必要に仕える者としてくださる。我々の生きるすべてが神の意志に従うものであるように導いてくださる。

あなたは主に必要とされている存在。あなたの解放である罪の赦しは、あなたが神の必要に仕えるために与えられる。解放された者は、主体的に主の必要に自らを差し出す者とされる。神の恵みに感謝し、すべては神の必要を必然的に満たすと信じて、聖なる週をキリストに従って歩み行こう。キリストはあなたを解放してくださる。

祈ります。

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