「復活の必然」

2019年4月21日(復活日)

ルカによる福音書24章1節~12節

 

「週の初めの日の夜明け深き頃、彼らは墓にやって来た、準備した香料を携えて」と記されている。「墓」と訳される言葉はギリシア語でムネーマである。ムネーマという名詞は、ムネーメオー「思い起こす」という動詞の名詞形である。墓とは思い起こす場所である。死んで目の前からいなくなった人を思い起こす場所がムネーマ。思い起こすことは、単に思い出を反芻するだけではなく、聖餐の際に思い起こすイエス・キリストの言葉はイエスの現臨として生じるということもある。しかし、ここでは女たちの意識は過去のイエスとの思い出を思い起こす場所にしか向いていない。墓には過去しかない。生きている方は過去ではない。思い出の中にはおられない。それが、二人の男たちが語る言葉である。

生きている方を死者たちと共にいるものと思い、探している女たち。彼女たちはイエスが生きておられるとは思っていないのだから仕方ないであろう。その彼女たちに現れた二人の男たちは言う。「あなたがたは思い起こせ、ガリラヤにおられたとき、彼があなたがたに語られたように」と。思い起こすべきは、イエスの身体ではなく、イエスとの思い出でもなく、イエスの語られた言葉だと彼らは言う。どうしてなのか。言葉も思い出ではないのか。しかし、言葉は生きている。

我々は言葉によっていのちを得ることがある。過去の出来事を思い起こしても、悲しみや寂しさが増すだけ。しかし、言葉を思い起こすときには語られた言葉自体が我々に今も聞こえ、今もそのときのいのちを回復させる。それだけではなく、言葉は語られたときに、新しい世界を開くこともある。今まで捕らわれていた世界から解放されるのは、我々の魂が語られた言葉に感応するからである。人間同士の言葉であろうともそういうことが起こる。まして、神の言葉は過去に語られた言葉であろうとも、今その言葉をまっすぐに聞く者には力を与える。神の言葉によって造られた我々人間は本来神の言に感応するものである。しかし、罪を犯した結果、我々は神の言葉を聞く耳を閉じられてしまった。人間の言葉しか聞かなくなってしまった。これが我々罪人の現実である。

思い起こす場所を訪れた女たちも同じように人間の言葉に、人間の世界に縛られていた。準備したものも葬りのための香料であった。目の前で十字架の上に息絶えたイエスを見ていた女たち。彼女たちはイエスの死を見た。それゆえに、イエスは死んだのだと了解し、香料を準備した。そして、イエスの動かない身体に香料を塗り、イエスとの思い出に涙するため墓にやって来た。思い起こす場所で、自分とイエスとの思い出を悲しむはずだった。ところが、香料を塗るべきイエスの身体が見当たらない。悲しみをもたらすはずのイエスの身体はなかった。イエスとの思い出が、身体と共に失われてしまった。

そのとき、二人の男たちが、彼女たちに言う。「何故、生きている方を死者たちと共に探しているのか。彼はここにはいない。彼は起こされた」と。そして、彼らは言う。「あなたがたは思い起こせ、彼があなたがたに語ったように」と。思い起こすべきは彼の言葉だと言う。その言葉は神の必然を語っていた。

「することになっている」と訳されている言葉はデイというギリシア語である。この言葉は「必ずそうなる」という意味であるから、必然的に起こることを意味する。必然的に起こることは何か。イエスが罪人たちの手に引き渡され、十字架に架けられ、三日の後復活するということである。女たちは、イエスが罪人たちの手に引き渡されて十字架に架けられ死んだことは確認している。最後の三日の後復活する必然が今起こっているのだと、二人の男たちは言ったのだ。

この必然については、イエスがガリラヤにおられたときに語っていた言葉であった。その言葉のうち、先の二つが実現している。最後の一つが実現するのは必然である。二人の男たちはイエスの語られた言葉を思い起こせと言ったが、神の言葉の必然を信ぜよと言ったのだ。

しかし、必然であるならば、我々が信じようと信じまいと必然的に起こるはずである。ところが、起こったことは必然であっても、起こったことを受け入れることは必然ではない。この世の現実であれば、誰もが起こったことを見る。しかし、神の現実は信仰をもって見なければ見えない。もちろん、この世の現実の中で起こったことであろうとも、受け入れる心がなければ起こっていても起こっていないと同じである。我々に起こる出来事は、我々が受け入れるとき、我々の前に現前する。現前する事実が新たに始める力、土台となる。我々が聞く言葉も同じ。我々が、ある言葉によっていのちを得、力を得るという場合、その言葉を受け入れるがゆえにそうなる。言葉を受け入れない場合は、自分自身が言葉に感応せず、言葉がすり抜けて行っているときである。また、我々がこの世に起こっている出来事をありのままに受け入れるか否かは、その出来事に感応するか否かである。感応する者は必然的に感応する。感応しない者は如何にしても感応しない。他人事である。同じように、イエスの復活が必然であろうとも、受け入れる者にしか受け入れられない。受け入れない者には、復活は自分とは関わりないことであり、必然でも何でもない。関わりがないのだ。

二人の男たちが女たちに語ったとおり、復活が必然であるとイエスが語った言葉を思い起こすならば、そして彼女たちがその言葉に感応するならば、彼らはイエスの顕現に出会うであろう。しかし、まずは彼女たちには使命が与えられた。空の墓の出来事を弟子たちに伝えると共に、天使が思い起こせと言ったイエスの語られた言葉を伝えることである。この使命を果たした後、彼女たちも言葉を自らのいのちとして体験することになる。彼女たちは、思い起こす場所から向きを変えて、弟子たちのところへ行き、彼らに伝えたが、愚かなことだと弟子たちは受け入れなかった。ただ、ペトロだけが墓に急行し、空の墓を確認した。キリスト教会の復活信仰は、空の墓とイエスの必然の言葉から始まった。思い起こすことの空しさと必然の言葉の確かさ。これが主のご復活の最初の出来事、復活の必然であった。

復活が必然であると同時に、受け入れられないことも必然である。さらに、受け入れる者が受け入れるであろうことも必然である。復活の朝、この必然が起こった。そして、受け入れる者はいのちをいただく。如何なることが起ころうとも、イエスと共に生きる力をいただく。イエスが十字架に死に、神によって起こされたからである。この復活は、思い出の場所で体験することではない。イエスの言葉において体験することである。復活の必然は、イエスの言葉の現実だからである。語られたことを実現し給う力ある言葉が神の言葉である。それゆえに、我々は神の言葉を伝える。復活が必然であると語るイエスの言葉を伝える。死ぬことも起こされることも神の必然であるとイエスは語った。語ったように生きてくださった。そして、神によって起こされた。

復活の朝、空の墓が指し示すのはイエスの思い出の身体はここにはないということ。イエスの思い出が失われても、イエスの言葉が必然を語り続けているということ。我々はイエスの言葉によって復活を信じる者。キリスト者とはイエスの言葉によって復活の新しいいのちに生かされる者。キリスト者とは神の言葉の必然によって新しい世界を開かれた者、神の世界を必然的に生きるようにされた者。

復活の朝、女たちが聞いた天使の言葉が彼女たちを思い出の悲しみから解き放ち、神の言葉を伝える者として遣わしたように、我々も遣わされていく。神の言葉は我々をご自身の必然の世界へと導き、その世界を広げるようにと使命を与え給う。今日、洗礼を受ける池田祥子と共に、我々に与えられた使命を改めて確認しよう。あなたが、神の必然の言葉を伝えるとき、あなたはイエスに出会い、いのちを得、いのちを広げる者とされる。池田祥子と共に、自分に死に、神に生きるいのちを生きていこう。パンと葡萄酒をキリストの言葉と共にいただくあなたにキリストはご自身の身体と血を現臨させ給う。

主のご復活おめでとうございます。

祈ります。

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