「開かれる目」

2019年4月28日(復活後第1主日)

ルカによる福音書24章13節~35節

 

「理性的に考えることなき者たち、心に信じることの鈍い者たち、預言者たちが語ったことすべてについて」とイエスは二人に言う。彼らは理性的に考えているつもりである。しかし、彼らの理性は地上的な人間の理性でしかない。彼らには、神の事柄を理解し、考える理性が閉じられている。それが二人を含めた弟子たちの問題である。

使徒パウロが言うように、理性が捉えるものは人間であれば人間の理解できる事柄であり、神であれば神の事柄である。神の事柄を人間の理性で捉え、理解することはできない。神の事柄を理解するのは神の霊であり、人間の事柄を理解するのは人間の霊である。我々キリスト者には神の霊、聖霊が与えられているがゆえに神の事柄を理解する理性が開かれている。パウロはこう言っている。「わたしたちは持っている、キリストの理性を」と。

理性と訳した言葉はギリシア語でヌース。心と訳されることが多いが、心の思考を司る部分である。ギリシア語では「心」と日本語に訳される言葉が他にもある。カルディアとディアノイアである。カルディアは心のある場所を指すと言われ、ディアノイアは思考を通して判断するという心の働きを指すと考えられている。今日の聖書の箇所では、判断に先立つ理性的思考について語られているが、二人を含む弟子たちは理性的思考ができなくなっていた。先に、マグダラのマリアたちが伝えた「空の墓」の出来事と天使の言葉を聞いても「愚かなこと」と思ってしまった。「空の墓」について理性的に考えれば、イエスの体がないという事実は受け入れざるを得ない。しかし、起こった事実を人間的に地上の出来事と考える場合、誰かが持ち去ったとしか考えられない。しかし、神の出来事と受け入れる場合、天使が語る通りイエスは復活させられたと受け入れるであろう。その場合、人間的理性判断では受け入れ不能なことを受け入れるのだから、「信じる」と言うのである。だから、イエスはこの二人に向かって言った。「理性的に考えることなき者たち、心に信じることの鈍い者たち」と。

預言者たちが語った言葉は神の言葉であるから、彼らを通して語られた言葉を信じるということは、神がわたしに語り給うた心を受け取って信頼するということである。この受け取りを可能とするのが聖霊なのである。聖霊が与えられていなければ、誰も神の言葉を自分への言葉として受け取ることはない。なぜなら、神の言葉は人間の理性を超えているからである。

人間の理性的思考は、人間の地上的視点から受け入れ可能なことしか考えない。それゆえに、神の言葉を信じることは理性的ではないと思ってしまう。荒唐無稽なことをただ信じるなどというのは理性的な人間のすることではないと言う人がいるが、その通りである。理性的な人間はただ信じることができない。神の出来事を自分が受け入れ可能なレベルに変換し、翻訳しなければ、受け入れることができないのである。そのような受け入れは神の事柄をそのままに受け入れてはいないのだから、理解しているわけではないし、信じているわけでもない。受け入れ可能なところだけを受け入れているというに過ぎない。それは信仰でも何でもなく、ただの人間的理性の判断でしかない。

神の言葉を信じるということは、人間的理性判断を越えた世界があるということを信じることである。我々人間が理解する以上のことがこの世界にはあると信じることである。それゆえに、信じることは人間的理性判断を捨てて、神の言葉にすべてを委ねることである。もちろん、それこそが神的理性の働きである。人間的理性を捨てて、神的理性の働きに身を委ねることは、神によって注がれた聖霊の働きによる。イエスが神の事柄を語った二人の弟子たちは、イエスの言葉を聞きながら、次第に人間的理性判断を捨てていった。ついに、イエスがパンを裂いて、彼らに渡したとき、二人の目が開かれた。彼らはイエスが目指した最終的形態に至ったのである。

二人の弟子たちは、イエスが道々語ってくださった言葉を聞いたとき、心が燃えていたと感じた。イエスは彼らに語っただけではなく、「聖書を開いてくださった」と彼らは受け取った。新共同訳は「聖書を説明した」と訳しているが「聖書を開いた」が原文である。彼らの目が開かれた後、あのとき聖書を開いてくださったのだと理解した。彼らの目は聖書を読んでいるようで、まったく読んでいなかった。彼らには聖書は閉じられてしまっていた。聖書を理解する理性が閉じられていたということである。神の言葉を受け入れる理性が閉じられていたということである。だからこそ、彼らの心が燃えていたと感じたとき、聖書はイエスによって開かれたと受け取ったのである。

我々人間は、一人で聖書を読んでも理解できない。自分で学んで聖書を理解しようとしても、人間的理性が理解できることしか受け入れない。それゆえに、荒唐無稽で分からないと感じてしまう。神の事柄は人間の理性を越えているのだから当然である。そして、我々人間は、自分のレベルで理解可能な言葉だけを好んで選び、聞こうとする。それで聖書を理解したと思ってしまう。しかし、実は何も理解してない。神が語っている言葉を理解することはできないのだと理解していないがゆえに、理解していると思っていても何も理解していない。イエスは、二人の弟子たちにあなたがたは何も理解していないとおっしゃったのだ。彼らが理解していないことを受け入れたとき、もっとイエスの話を聞きたいと思った。そして、一緒に泊まってくれるようにと願った。

理解していないことを受け入れたがゆえに、イエスのパン裂きの出来事において、彼らの目は開かれた。それは、神的事柄を受け入れ、思考する神的理性が開かれたということである。もちろん、イエスは道々、彼らに聖書を開いてくださっていたのだから当然である。我々キリスト者が聖書を受け入れることができるのは、開かれた目を与えられているからである。神の言葉を信じることができるのは、今日イエスが二人の弟子たちの目を開いてくださったように、あなたがたの目も開かれているからである。聖書に対して目が開かれている者は、この世界に起こってくる出来事も神の出来事として受け入れることができる。二人の弟子たちは、イエスの死も復活も神の出来事、神の必然として、受け入れた。開かれた目によって、彼らは神の出来事を受け入れた。イエスが目を開いてくださったからである。

我々キリスト者が復活を信じるのは、人間的理性が理解できる復活を受け入れるのではない。人間的理性では理解不能な復活を受け入れるのである。それは、「復活など起こるはずはないが、起こったのだと思うことにしよう」というわけではない。「わざわざ現れてくださったイエスの心が伝わったことを復活と言うのだ」と精神的に受け入れることでもない。実際に、この世で起こった出来事は神の出来事であり、その見えない部分は考え方を変えれば受け入れやすいというような人間の思い込みとは違うのである。視点の転換によって、世界が違って見えるということでもないのだ。信仰は視点の転換ではない。わたしが生きるすべて、わたしの全存在、全人生の土台、根拠が変えられることが信仰なのである。

我々人間は自分を土台として、自分を根拠として生きている。デカルトが言ったように「我思う。ゆえに我あり」という人間理性の判断に従って生きている。しかし、わたしがここにいるということは、わたしが思うからではない。神が置かれたからである。神の意志によって、あなたはここにいるのである。二人の弟子たちにイエスが同行してくださったのも彼らの思いを越えさせるため。弟子たちの思いを神の次元へと移行させるため。彼らの目を開いてくださったイエスは、我々の目も開いてくださった。今我々が見ている世界は神の世界。神がご自身の意志を実現しておられる世界。主の復活を喜び祝っている我々は、開かれた目を与えられている。与えられた開かれた目を持って、世界を見ていこう。イエスに従って、神の世界を生きていこう。

祈ります。

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