「体で知る復活」

2019年5月5日(復活後第2主日)

ルカによる福音書24章36節~43節

 

「あなたがたは何か食べられるものを持っているか」とイエスは弟子たちに言う。「食べられるもの」であって「食べ物」とは少し違う表現である。「食べ物」と同じような意味だと考えがちだが、「食べられるもの」であれば、食べることができるもののことである。それで弟子たちは焼いた魚を一切れイエスに渡した。生魚ではなく、焼き魚なら食べられるものだからであろうか。イエスがあえて「食べられるもの」と言ったのは、骨と肉がある人間が食べることができるものを求めたということである。弟子たちは自分たちが食べることができるものをイエスに差し出した。イエスは彼らの目の前で食べて見せた。骨と肉があることを彼らに見せるためである。イエスが焼き魚を食べる姿を見ながら、弟子たちは自分たちが食べるときのことを体で感じながらイエスを見た。彼らは自分たちも焼き魚を食べているかのようにイエスを見ていたのである。

先にイエスはこうも言っていた。「あなたがたはわたしを触れ。そして、あなたがたは見よ」と。触るという触覚、見るという視覚、そして今食べるという味覚や嗅覚や聴覚を使って、弟子たちはイエスを感じている。触覚、視覚、味覚、嗅覚、聴覚という五感すべてを使って、イエスを見ている。つまり、彼らは体全体で復活のイエスを見ているのである。復活とは人間の五感すべてにおいて受け取るべきもの。精神的に受け取るものではない。

復活を考えるとき、現代に生きる我々はどうしても精神的に考えてしまうものである。イエスの心を受け取ったとか、イエスを霊的に感じたとか考えてしまう。こうして、我々は体全体で受け取るべき出来事を、心の問題にしてしまう。そして、信仰も心の問題だと思い込んでしまう。確かに、心が外に現れるということがある。してみると、心も実体を持っている。実体のない心は思い込みであり、空想でしかない。実体のある心は外に現れて、実体となる。心に映された像が実体であるから、実体となるといえる。しかし、今我々はイエスを体で感じるであろうか。体で見るであろうか。五感をもってイエスを見た者がいるであろうか。弟子たちが証言として残した聖書の言葉に従って、我々はイエスは復活したのだと信じているだけなのではないか。我々自身がイエスを体で知ったことなどない、と思っている。ところが、我々キリスト者はイエスを体で知った者なのである。

我々が受けた洗礼は、実際には水を垂らす滴礼や水を濯ぐ灌礼であるから、体全体を水に沈められたわけではない。しかし、それでもなお、洗礼は滴礼であろうと灌礼であろうと沈められる浸礼であろうと同じく水に沈められる洗礼である。この洗礼はキリストと共に水に沈められて死に、キリストと共に自ら起こされて新しく生きる洗礼の意義を違わずに保持している。水と共にあるキリストの言葉がそれを保持しているからである。我々キリスト者はキリストと共に死に、キリストと共に起こされた者。キリストと共に死と復活に与った者。死と復活を体で知った者。イエスが弟子たちに体全体で、五感すべてでご自身の復活を見るようにしてくださったのも、この洗礼と同じ経験を与えることだったのである。彼らは自分の視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚を通して、イエスの復活を知った。我々の洗礼も同じく五感を通して、イエスの死と復活に一体化される出来事なのである。

イエスは復活後、ご自身が生きているということを弟子たちに伝えた。さらにいのちを与えるお方であることを、「食べられるもの」を食べることで、弟子たちに伝えた。弟子たちは、食べられるものをイエスに差し出すことを通して、イエスが食べる行為を共に経験した。こうして、彼らはイエスの復活を信じる者へと変えられたのである。我々も自分の上に濯がれた水を、イエスの言葉と共に五感で受け取り、体で復活を知った者である。体で知るのであって、頭で知るのではない。体で知ることによって、我々には消えることのない復活体験が与えられたのである。洗礼を受けているということは、失われない復活体験を与えられたことなのである。それゆえに、後になって、復活など思い込みであって精神的なものだと誰かが言ったとしても、「わたしは洗礼を受けている」と言えば良いのだ。わたしはイエスと一つに結ばれる洗礼を受けている。だから、イエスが復活したことをこの体で知っている。それゆえに、誰かが精神的な復活を語って、実体ではないと批判したとしても、うろたえることはない。我々の体が復活を知っているのだから。

弟子たちが「喜びから、信じないで、驚いていた」と言われているのも、彼らはまだイエスを体で感じ取ることができなかったということである。彼らはイエスを見ていることを喜んだが、人間的理性では信じられない気持ちと驚きで満たされた。弟子たちが信じられないがゆえに、イエスは彼らが体で知ることができるように「食べられるもの」を求めたのである。彼らは焼き魚をイエスに手渡して触れ、イエスが食べる様子を見て、食べている焼き魚のにおいを嗅いで味わい、イエスの食べる音を聴いた。彼らの五感がイエスの復活を感じ取った。このとき、彼らは、信じられなかったイエスの復活を信じる者とされた。

しかし、信じるのは見えないものではないのか。この世の理性や感覚では触れて見ることができないものではないのか。見て、触っているものを信じるとは誰も言わない。そうであれば、信じるということはイエスは見えなかったのに見たと思い込んだだけではないかと思えてしまう。実際、エマオ途上でのイエスは、二人の弟子たちがイエスだと認めた瞬間に見えなくなったと言われているではないか。そうであれば、復活のイエスは霊であって、実体のないお方なのではないのか。しかし、エマオの二人にもパンを裂いて渡したイエスがおられる。実体のないお方がパンを裂くこと、渡すことはできない。それなのに、見えなくなるお方でもあるということはどのように理解すれば良いのだろうか。

使徒パウロは、朽ちるべき体と朽ちない霊の体があると言っている。朽ちるべき体は地上に縛られている体である。朽ちない霊の体は体を持ちながら、地上に縛られない体である。どちらも「体」があるが、体はその人そのものを感じ取るためにある。体がなければ、その人を知ることができない。霊の体とパウロが言ったのは、地上に縛られてはいないが、体はあるということである。体は、五感を持っている。見て、触れて、嗅いで、味わい、聴くということができるこの体は、復活の際にもあるとパウロは言うのである。それがイエスの復活の体。エマオの二人が知ったイエスの体。そして、今日、弟子たちに現れたイエスなのである。

我々は、このイエスの復活を信じる。信じるとは、この地上の体のように誰もが確認することができないがゆえに、信じるというのである。見ることができる人、触れることができる人がいる一方で、見ることも触れることもできない人がいるということである。我々キリスト者は、イエスの復活を見て、触れて、嗅いで、聴いて、味わう存在なのである。この五感は、地上の五感とは違う天上の五感、地上の人間的理性では捉えることができない神的理性によって感じる五感である。この五感を与えられているのがキリスト者なのである。

我々は、この新しい五感をもって、体全体でキリストの復活を受け取り、キリストと共に生きる。キリスト者は、地上に縛られない生を生きる。キリスト者は、見えない世界を感じ取る。キリスト者は、地上的五感では見えない世界を信じる。キリストは、我々キリスト者の天上的五感が研ぎ澄まされるために、ご自身の体と血をパンと葡萄酒を通して、我々に与えてくださる。聖餐を通して、主は我々を信じる者としてくださる。聖餐は、我々キリスト者を形作る天の食物。聖餐は、我々キリスト者の食べ物。聖餐は、キリストの愛を体でいただく食事。今日も感謝していただき、キリストの復活を体で証しする者として、歩みだそう。あなたの体がキリストの復活を受け取っている。キリストはあなたのうちに生きておられる。

祈ります。

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