「イエスの羊たち」

2019年5月12日(復活後第3主日)

ヨハネによる福音書10章22節~30節

 

「いつまでわたしたちの魂を持ち上げたままにしておくのか。もし、あなたがキリストならば、わたしたちに言いなさい、公然と」とユダヤ人たちはイエスに言う。それに対して、イエスは言う。「わたしは言った。そして、あなたがたは信じなかった」と。イエスは「聞かなかった」とは言わない。「信じなかった」と言う。どうしてであろうか。

「聞かない」というよりも「信じない」ということの方がより深い部分を語っているからである。聞かないということは耳がイエスの言葉に開かれていないということであるが、「信じない」ということは受け入れないということである。「信じる」という言葉には「信頼する」という意味があるのだから、イエスが公然と語っても、語っておられるイエスを信頼していないならば、聞いた言葉をすぐに捨ててしまうであろう。自分たちが「言いなさい」と言ったにも関わらず、イエスが言っても受け入れないのは、イエスを信頼していないからである。イエスを信頼しているならば受け入れるであろうし、聞くであろう。この信頼はどこから生まれるのか。

イエスを信頼して、イエスの言葉を聞く存在のことをイエスは「わたしの羊たち」と呼んでいる。こう呼ぶからには、イエスの羊たちという存在は、イエスの手に任された羊たちである。しかし、羊の中にもイエスに任されたことを受け入れないものもいるであろう。「わたしはこの羊飼いを受け入れない」と思う羊もいるであろう。そのときには、自分からイエスの羊ではないかのように生きていることになる。その羊は、イエスが別の福音書の中で、たとえを語ったように、群れから外れてしまう。羊飼いが探し回って、見つけたとき、ようやくその羊は、そこまでしてくれた羊飼いの愛を受け取って、イエスの羊であることを喜ぶであろう。このような素直ではない羊であろうとも、イエスの羊として生きる日は来る。その日には、羊は魂を開かれている、イエスの愛によって。

イエスの方は羊飼いとして羊のことを良く知っているがゆえに、探しに行く。おそらく、他の福音書でイエスがたとえで語った存在は、神の羊であったのに、罪人として排除されていた人たちであった。ここでイエスが「わたしの羊たち」と呼んでいる存在も同じであろう。この話の前に、イエスは「この囲いに入っていない他の羊もいる」とおっしゃっているからである。この囲いから抜け出している羊は、イエスの羊だと分かっていない羊である。その羊を探して、導くとイエスはおっしゃっていた。囲いを抜け出して、彷徨っている羊は、イエスの十字架において示された愛によって、「わたしの羊飼い」を見いだすであろう。その羊も魂を開かれた羊である。

では、それでもなお、耳を開かれないとすれば、その羊はイエスの羊ではないということになる。そこに至って、ようやくイエスの羊とイエスの羊ではない羊が分かる。ということは、イエスの羊は周りから分かるわけではなく、自分自身でも分かるわけではなく、イエスが知っているだけだということになる。それでも、イエスの十字架の愛を受け取ることができるならば、その羊はイエスの羊である。イエスの羊であるか否かは、羊自体には判別できない。むしろ、イエスが判別する。それがイエスの羊たちである。それゆえに、羊たちを外から見ても分からない。なぜなら、羊たちの魂そのものがイエスの羊だからである。

ユダヤ人たちが、イエスに「いつまで、わたしたちの魂を持ち上げたままにしているのか」と言っているのは、彼らがイエスの羊ではないということであるとイエスは言う。この言葉は、持ち上げられて宙づりになった状態を意味しているが、そのようなことは彼ら自身が自分でそう思っているに過ぎない。イエスは持ち上げてもいなければ、焦らしているわけでもない。イエスははっきりと言ったと答えている。しかし、イエスはご自分のことを「キリストである」とは一言も言ってはいない。たとえで「良い羊飼いである」と言っただけである。ということは、やはり分かる者にしか分からないように語ったのではないのか。イエスは公然と言ったが、分かる者に分かるように言ったのである。

公然と「わたしはキリストである」と言うことと、たとえで「わたしは良い羊飼いである」と言うこととはどう違うのか。良い羊飼いとはキリストという意味ではない。ところが、イエスの羊であるならば、その言葉を通して、イエスが羊飼いであることを知るであろう。羊飼いが自分を救ってくれる存在だと知るであろう。イエスの羊であれば、イエスは公然と言ったと受け取り、イエスの羊でなければ「わたしたちの魂を持ち上げたままにしておく」と受け取る。それだけである。もしも、イエスが「わたしはキリストである」と言ったとしても同じである。イエスをキリストとして受け入れない存在、受け入れたくない存在にとっては、その言葉は受け入れられない言葉である。イエスが公然と言ったとしても、受け入れない。イエスの羊でなければ、受け入れない。ただそれだけである。

そうなると、イエスの羊であるという根源的な事実が先にあって、イエスの言葉を受け入れる羊として生きるということになる。この根源的な事実は、羊自体には理解できない。ただ何故か、イエスの言葉がその羊の魂にまで届くというだけなのである。この根源的な事実は、羊が作り出すことのできないものである。神が造り出している事実である。神がイエスの羊として造っている根源性があって、その羊はイエスの羊なのである。イエスの羊ではなかった羊がイエスの羊になるということはない。イエスの羊は最初からイエスの羊である。それが最終的に分かるのは、永遠の命を与えられる最後の審判の時ということになる。そのときまでは、イエスの羊すべてが明らかになるということはない。それゆえに、我々は先回りして、イエスの羊であるか否かを判断してはならない。むしろ、最後の時まで分からないとするべきである。しかし、自分については、今イエスに聞き従っていると思い上がってはならない。自分自身がイエスを信頼しているならば、他者と比較することもない。我々が、誰がイエスの羊であるかと議論するとすれば、そのような議論をするわたしはイエスの羊として生きているとは言えない。なぜなら、イエスの羊はただイエスの声を聞くだけで満足するからである。他の羊がどうであろうともわたしはイエスに信頼し、イエスの愛に感謝し、イエスに従うのだと生きる。それがイエスの羊である。

イエスの羊のことを、イエスは「父がわたしに与えたものはすべてのものよりも大きい」とおっしゃっている。神がイエスの羊としてくださった羊は、すべてのものよりも大きいのだ。どんなに小さな羊であろうとも大きいのだ、すべてのものよりも。それは、すべてのものを越えている大きな羊だということである。存在の小ささ、価値の小ささ、能力の小ささに関わりなく、「父がイエスに与えた」という事実に生きている羊であり、その認識はすべてのものよりも大きいとイエスは言うのである。これは、この世の価値を超えて大きな存在だということである。それは目に見える存在の大きさ、価値の大きさではなく、目に見えない価値、魂の大きさである。魂がイエスと一つにされ、父と一つにされている存在は、その魂がイエスと父との一体性の中で生きているのだから、すべてのものよりも大きい。一体性を生きていなければ、目に見える価値や大きさによって、比較されるだけの小さな存在である。すべてのものよりも大きい羊は、個々の羊がそうであるのだから、比較されないし、比較することのない大きさの中で生きているということである。そこに争いはない。

我々がイエスの羊である価値は、神が与え給うた価値。我々が獲得した価値ではない。神が与え給うた価値を生きているのがイエスの羊たちである。このように生きる羊であるか否かを自らに問う必要は無いし、他者を判断する必要も無い。ただ、神が与え給うた価値と開かれた耳によって、イエスを信頼しているだけの羊がイエスの羊たちである。あなたがたはイエスの羊たちである事実を与えられた存在。信頼して、聞き従っていこう、良い羊飼いに。

祈ります。

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