「祝福と祝福の間」

2019年6月2日(昇天主日)
ルカによる福音書24章44節~53節

「わたしについて、モーセの律法と預言者たちと詩編たちにおいて、書かれてしまっていることすべては満たされることになっている」とイエスは言う。それは、イエスが弟子たちとまだ共にいたときに語られた言葉であったと言う。その言葉は、イエスの受難予告であった。イエスは弟子たちに三度ご自身の受難を予告しておられた。しかし、そのときには彼らはイエスの言っていることが何のことなのか分からなかったと記されていた。ようやく、弟子たちにはイエスの語っておられた言葉を理解するときが来た。それは、イエスの出来事すべてが完了してしまった今なのだとイエスは言うのである。
物事を理解するのはすべてが完了したときである。それまでは、何を語っても理解できないものである。ただ、想像力があるならば別だが、弟子たちには想像力がなかった。いや、現実の目の前の出来事しか理解できなかった。目の前にあることだけが彼らにはすべてであった。将来のことを語られても受け入れることができなかった。理解するということは受け入れることである。ギリシア語では「共に送る」という言葉シュニエーミが使われている。理解するということは、イエスの語っておられた言葉を自分も「共に送る」ようになることである。そのためには語っている言葉を受け入れて、イエスと共に送る必要があるということである。物事を理解するということは、共に送ることであるが、身体的に「共にいる」ということでは十分ではない。イエスは弟子たちと共にいた間に、彼らに語り、「共に送る」ように願った。しかし、彼らはイエスと同じところに立つことができなかった。それゆえに、彼らは理解することなく、イエスが何を語っても受け入れることができなかった。耳で聞いていても、魂で聞いていなかったのである。
では、どのようにすれば、魂で聞くようになるのであろうか。聖霊を与えられることによってである。それについては、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一2章6節以下で詳細に語っている。神の事柄を知るのは神の霊である。人間の事柄を知るのは人間の霊である。人間の霊は神の事柄を知ることはないと。それゆえに、神はご自身の霊を我々に与えて、神の意志、神の思いを知ることができるようにしてくださった。それが聖霊降臨の出来事である。その聖霊が弟子たちに送られるためには、イエスが「共にいる」ところから取り去られる必要があった。弟子たちが目の前の事柄から解放される必要があった。イエスの十字架と復活の出来事が完了した今、ようやく弟子たちは解放されている。目の前のイエスから解放されている。もちろん、彼らはイエスを見ている。しかし、十字架と復活の後に見ている。それは、この世の出来事として見ているのではなく、神の出来事として見せられているのである。そして、イエスは弟子たちの理性を開いたと記されている。
新共同訳は「心の目を開いた」と訳しているが、これは「彼らの理性を開いた」が原文である。しかも、その理性は「聖書を理解する理性」と言われている。聖書を「共に送る」理性ということである。誰かに向かって「共に送る」ことができるようになって、ようやく我々はその出来事や事柄を理解したと言えるのである。理解するということは、我々が誰かに語ることができるようになることなのである。そのときには、自分の事柄として語ることができるということである。しかも、神の出来事である天上の事柄を地上の誰かに送るのである。これをイエスは「宣べ伝えられる」と受動態で語っておられる。つまり、弟子たちが宣べ伝えるのではなく、神の霊が宣べ伝えることを指している。もちろん、語るのは弟子たちである。しかし、彼らに与えられた聖霊は、イエスが開いた彼らの聖書理解の理性において働く。それゆえに、彼らが自分の思いを語るのではなく、聖書を自分のこととして語る。それゆえに、彼らは宣べ伝える者であるが、聖霊によって自分に宣べ伝えられた事柄を語る者なのである。
その出来事が聖霊降臨である。そのためにはイエスが天に上げられる必要があった。なぜなら、天上の事柄を地上において宣べ伝えるのは弟子たちだからである。天上の事柄であるイエスの祝福が彼らを包む。それに応えて、弟子たちは地上において神を褒め讃える、つまり神を祝福する。天上の祝福と地上の祝福の間において、宣教は生じるのである。
祝福という言葉は、ユーロゲオーというギリシア語である。この言葉は「良い」と「語る」という言葉からできている。良いことを語るのが「祝福」である。そして、「褒め讃える」ことでもある。同じ言葉が人間の場合と神の場合とで訳し分けられているが、実は同じ言葉である。イエスが弟子たちをユーロゲオーすることで、弟子たちも神をユーロゲオーする。祝福の呼応関係の中で、宣教は生じるのである。祝福を受け取った者が神を褒め讃える。天上と地上とが祝福において一つとなる。マタイによる福音書28章の最後でイエスがこうおっしゃっている。「天における、そして地の上におけるすべての権威がわたしに与えられている」と。イエスが天に上げられるということは、天と地の権威をイエスが与えられていることなのである。具体的には、弟子たちが地上において、天上の出来事、神の出来事を宣教するということである。そのために、イエスは彼らを祝福した。そして、弟子たちは神を褒め讃えた。この祝福の呼応関係の中で、弟子たちの宣べ伝えることが生じる。そのために、聖霊が送られるのである。
もちろん、彼らが聖霊を受け取らなければならない。受け取りを可能にするのは、彼らの聖書理解の理性がイエスによって開かれたからである。聖書を理解することによって、我々は聖書が語っていることが真実であると宣べ伝えることができる。そのために、イエスは弟子たちの理性を開いた。その理性はそれまで閉じられていた。エマオ途上の弟子たちも理性を閉じられていたがゆえに、イエスだと分からなかった。開かれたとき、イエスを認識した。復活顕現は、神的理性の開けによって与えられる。人間的理性では受け入れ不能な事柄が、神的理性の開けによって可能となる。それゆえに、イエスの復活は人間的理性では受け入れられない。神的理性を開かれてこそ受け入れることができる。弟子たちは、このときようやくイエスの復活を受け入れた。そして、イエスと共に誰かに送ることが可能となった、神の出来事を。これが今日、弟子たちに起こったイエスの昇天なのである。
これは、あの十一弟子だけに起こったのであろうか。使徒パウロが言うように、その後の人々にも起こったのである。使徒パウロは、復活顕現を受けた最後の者と言っているが、復活顕現において起こったことは、後の者たちである我々にも聖書を理解するという形で起こっているのである。聖書を理解するということが復活顕現に伴っているのであれば、聖書を自分のこととして理解する理性が開かれているならば、復活顕現に与っているのである。我々キリスト者が天上の出来事であるイエスの十字架と復活を信じるということは、我々が神的理性を開かれた者であるということである。この神的理性の開けは、イエスの昇天において起こったのだから、我々もまたイエスの祝福の下に神を褒め讃えるとき、理性の開けに与っているのである。
イエスの祝福を受け取った者は、神を褒め讃え、イエスの出来事を宣べ伝える者とされる。それは「罪の赦し」を受け取ったということであり、「悔い改め」である生き方の方向転換をさせられた者だということである。「罪の赦し」はイエスの祝福である。「悔い改め」は神を褒め讃えることである。「罪の赦し」と「悔い改め」が祝福と祝福の間で生じる。天上の祝福と地上の褒め讃えの間を、我々は生きて行く。祝福と祝福の間を生きるために、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。あなたのためにわたしは体を与えた、あなたのために血を流したと、イエスは祝福を与えてくださる。今日も神を褒め讃えつつ、イエスの聖餐に与ろう。あなたがたは神的理性を開かれた者。神の宣教に用いられる者。イエスの祝福を地上にもたらす者。聖霊の働きの下、それぞれの場に遣わされて行こう。
祈ります。

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