「聖霊による義」

2019年6月9日(聖霊降臨祭主日)
ヨハネによる福音書16章4節b~11節

「その方は来て、世を説諭する」とイエスは言う。「説諭する」という言葉はエレンホーというギリシア語であるが、叱責し、説得し、了解させることを意味している。これは、単に非難するだけではなく、叱責し、相手に一つの確信を与えるように説くことである。あなたは間違っているのだと教え諭すことである。これが聖霊の働きだと言われている。
その聖霊はイエスが派遣する。イエスは直接説諭するのではなく、聖霊の派遣によって、正しい認識を起こさせるように働いて下さる。聖霊を通して、イエスの説諭が行われる。間接的説諭であるが、イエスが派遣したのだから、聖霊の説諭はイエスの説諭である。そして、父の説諭である。その内容は「罪」、「義」、「裁き」と言われている。世はこれら三つの事柄を正しく認識していない。しかし、自分たちは同類に対して「罪」を指摘し、「義」を教え、「裁き」を行っている。これが世であり、それが間違っているのならば、世は自分たちの価値判断の中でそれを行っているということである。それゆえに、イエスは聖霊を派遣するのだが、聖霊の派遣はイエスの十字架と復活の後、天に上げられることで実現する。イエスの十字架と復活についても間違った認識を持っているのがこの世である。イエスは十字架と復活の後、聖霊を派遣し、この世を正しい道に導くのである。
さて、「罪」、「義」、「裁き」についての正しい認識とはいったいどのようなことなのかをイエスは告げる。「罪」とは「イエスを信じない」ことであると。イエスを信じるとき、この世は罪なき存在となるのである。罪ある存在はイエスを信じることができない。何故か。信じることは我々人間の働きではないからである。我々ができることであれば、誰でもイエスを信じていたであろう。できないがゆえに、誰も信じなかった。信じることができないのが人間だからである。我々人間は信じることができないのである。我々が信じると言っているのは、我々が確認したことである。「これは信じられる」と確認したことを信じるのが人間なのである。この世における信じるということの過ちは、自分が信じられるものを信じるという過ちである。信じられないものを信じる人はいないのである。
もちろん、信じられないということは自分たちが確認できないということである。それゆえに、実証されたものだけが真実だと言われる。実証は自分たち人間が実証したというだけである。自分たちが把握できたというだけである。それを信じるとは実は言わない。確認したというだけである。実証できないことをこそ信じるのである。それゆえに、我々人間は信じることはできない。では、実証できないのに信じたならば、間違った方向に向かってしまうのではないのだろうか。そう考えるがゆえに、我々は信じることができないのである。間違ってしまわないようにと考えるがゆえに、信じるに至らない。これがこの世の過ちである。この過ちを聖霊が説諭するのであれば、信じることができないことを認めさせるのが聖霊だということである。信じることができないと認めたとき、信じているということになる。それが「罪」から解放されることである。信じるということは、ただ信じるのであって、実証し、確認して信じるのではない。誰も神の事柄を実証することはできないからである。
それで良いのか。だから宗教は人間を誤らせると言われるのではないのか。実証もできないことを信じるなどと言うから、宗教はアヘンだと言われる。実証主義の立場からはそう思われるであろう。この実証主義は近現代の専売特許ではない。人間は常に実証主義に立ってきた。自分が大丈夫だと確認したものだけが正しいと思い込んできた。しかし、人間の確認が正しいと誰が実証したのであろうか。人間が罪人であるならば、神に背いた存在であるならば、人間の確認は正しいはずはない。神の事柄を正しく認識しているはずはない。自己認識が間違っているのが人間なのである。それゆえに、人間は罪人であり、罪人としてしまっている根源を原罪と呼ぶのである。これが我々人間の正しい自己認識であり、この罪の状態から抜け出すことができないことを認識させるのが聖霊の働きなのである。
さて、罪を正しく認識した存在は、「義」と見なされる。「義」ではないが「義」と宣言される。これが信仰義認と言われる出来事である。イエスは「義」についてこうおっしゃっている。イエスが父の許へ行き、弟子たちがイエスを見ないということだと。これが「義」だとは意味の分からない表現である。イエスは何をおしゃっているのであろうか。「父の許へ行く」とは、復活顕現したイエスが父の許へ行くこと、つまり天に上げられることで、地の上から見えなくなることを指している。それゆえに「あなたがたがわたしをもはや見ない」とおっしゃっているのである。しかし、それが「義」とはどういうことであろうか。
「義」とは神との正しい関係に入れられることである。神との関係が正しいということは、罪について見たように、我々が信じることができない神の事柄を信じるようにされる神の働きを受け入れることである。聖霊の働きを受け入れるということが「義」である。しかし、そのことと「イエスが天に上げられること」と「イエスをもはや見ない」こととは何の関係があるのだろうか。イエスを見ないがゆえに、信じることが神の事柄の中心となるということである。そのとき我々は「義」と宣言されるであろう。信じることができない神の事柄を信じる者にされるとき、我々は本質的に信じられない者でありながら、信じさせられているのである。信じることは「義」である。しかし、本質的には我々は信じられないのだから、罪人である。義人であると言われても罪人である。罪人であることを認めている者が義と認められる。これが信仰義認なのだから、「罪」と「義」について正しくさせられるとき、我々は自分自身の力を捨て、自分を捨てて、イエスと父と聖霊の働きに身を委ねている。それが、我々人間に与えられる神の「義」である。
では、この世の支配者が裁かれるという「裁き」の真実は何を語っているのであろうか。この世の支配者は「裁く」存在である。自分自身が裁きの基準である。この世の支配者とは人間のことではない。悪魔のことである。悪魔がこの世を支配しているのは、神の裁きを恐れさせるように支配し、神を嫌悪するように支配しているのである。神への信頼を失わせるように支配している悪魔が裁かれる。これが裁きであるとイエスは言う。当時「裁き」を恐れるように導いていた教えは、終末における裁きで裁かれないように善い人間になるようにという教えであった。これはこの世の考え方に基づいている。それは優生思想に結びつく。善い人間だけが残るべきだという思想である。平均以下の人間は積極的に消して良いという思想である。このような思想に結びつく形で「裁き」が考えられ、裁かれない人間になることが求められた。そうなることができない人間を罪人と呼んで差別し、排除した。人間には裁く権利があるという主張である。これは神が造った存在を裁き、神が造った存在を差別し、排除する論理である。これは悪魔の論理であって、神の論理ではない。
人間には裁く権利はない。しかし、神に裁かれることを誤解している。神の裁きは説諭と同じく、我々が正しいことを正しいとするための裁き、叱責である。それゆえに、我々人間は裁かれることを神の愛と認識しなければならない。そして、罪人であることを認めなければならない。そのとき、我々は赦されている。詩編32編に歌われているように「『わたしの背きを主に告白しよう」とわたしは言った。そのとき、あなたはわたしの罪の不正を赦してくださった」ということである。これこそが神の裁きの真実である。聖霊はこの正しい認識へと我々を導くお方。あなたが罪の告白をするとき、聖霊があなたのうちに働いている。聖霊があなたの上に臨むとき、あなたは「罪」と「義」と「裁き」の正しい世界を生きる。聖霊降臨祭の今日、我々は神の力によって赦された者として、新たに歩み出そう。
祈ります

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