「真理の道案内」

2019年6月16日(三位一体主日)
ヨハネによる福音書16章12節~15節

「彼は道案内するであろう、あなたがたを、すべての真理のうちで」とイエスは言う。「道案内する」という言葉ホデーゴーは、ホドス「道」とヘグーマイ「支配する」、「指導する」という言葉からできている。聖霊は道を支配し、指導するお方であるとイエスはおっしゃっている。しかも、その道は「すべての真理のうちにある」道なのである。真理すべてとは、神の世界そのものということである。従って、聖霊は神の世界そのものの中で、歩くべき道を支配し、指導するお方であるという意味になる。聖霊の働きは神の世界の中で生きる道を案内してくれる働きなのである。
その働きは、神の世界の中に限定されている。すべての真理の中に限定されている。限定されているとは言え、神の世界が世界のすべてなのだから、人間の世界よりも広いということである。我々人間が真理だと認めることが真理なのではなく、神が認め給うこと、神が働き給うことが真理であるということを認めさせるのが聖霊である。このお方の働きによって、我々は人間の世界にあって、神の世界を認識することができる。人間の世界は道があってないような世界である。人間の道は到達点が明確ではないからである。我々人間はどこに向かって生きているのであろうか。自分の世界が良くなることに向かって生きている。しかし、良くなってどうなるのか。自分が世界を支配できるようになるかもしれない。それでどうなるのか。世界は思い通りに動くかもしれない。だからと言って、それでどうなるのか。その世界をわたしはどうしようとするであろうか。どうにも仕様がない。保持することはできない。新しい世界を造り出すことはできない。自分の世界を保持しようとしても、わたしの力は減退していくものである。これを保持することは我々自身にはできない。これは真理である。ところが、我々はこれを覆すことができると思い上がる。そして、自分の世界を拡張することに邁進するのである。
我々人間はいずれ死んでしまう存在である。もちろん、死んでも生きるとイエスはおっしゃったが、この地上においては我々の命は尽きてしまうものである。その命が増進することだけを求めるが、我々の命は増進から減退へと移行して、死を迎える。減退を阻もうと躍起になる。その人間を尻目に減退していく命。もちろん、減退と言っても、減退することで今まで見えなかった世界が見えるのであって、新しい世界を見ることである。それでも、我々の命そのものは我々の手の内にはない。神の手の内にある。それゆえに、神の意志に従って生きることが我々人間の生きる道なのである。この道を支配し、指導してくださるのが聖霊である。つまりは、我々が人間に過ぎないことを認めさせ、神に従って生きることができるようにしてくださるのが聖霊なのである。
我々人間が人間に過ぎないとは、神に造られた存在であって、神ではないということである。我々人間は朽ちるべき存在だということである。この朽ちるべき存在が朽ちない存在に変えられることを、使徒パウロは復活だと述べている。この復活は神が支配し給う事柄であって、我々人間の手の内にはない。それゆえに、すべての真理は神の手の内にある真理である。この朽ちるべき存在を朽ちない存在に変えてくださるお方が父なる神である。
聖霊は父なる神とイエス・キリストによって派遣され、神の世界に生きる道を案内してくださる。この道案内はどのようにして行われるのか。みことばを通してである。聖霊はみことばと共に働く。それはこう言われている。「彼は自分から語るのではなく、聞いた限りのことを語る」と。父なる神とイエス・キリストから聞いた限りのことを聖霊は語ると言われているのだから、聖霊は独自には働かない。神の意志に従ってのみ働く。それゆえに、聖霊に導かれる存在は神の意志に従うのである。
神の意志は神の言葉である。聖霊は神の言葉が語っていることを語り、指導する。聖霊の道案内はみことばに従った道案内なのである。さらに、来たるべきことを語るのが聖霊であるとも言われている。来たるべきことは神が来たらせることである。来たるべきことが来たるのであり、来たるべきではないことは来たらない。それが真理である。あるべきことがあり、あってはならないことは、あることができないということである。神の支配の中で、神の意志の中で、すべてはあるようにあり、来たるように来たる。これが真理であるならば、どうしてこの世界には来て欲しくないことが起こるのであろうか。「どうしてこのようなことが起こるのか」と思えることが起こるのは何故なのか。我々人間が罪深いがゆえである。
我々人間が聖霊の道案内に従って、神の意志に従って生きているならば、起こって欲しくないことは起こりえないであろう。しかし、我々人間が罪深く、神に背いて、自分の世界を拡張しようと躍起になっているがゆえに、この世界は混乱を来している。世界が混乱するのは、人間の所為である。世界が争いに満ちているのは人間の所為である。起きて欲しくないことが起こるのも人間の所為である。人間という存在が自己目的的に生きているからである。自分さえ良ければ、人がどうなっても構わないというように生きているからである。我々人間が世界を破壊している。それでもなお、神はご自身の意志を実現し給うのであろうか。そうである。キリストの十字架と復活がそのことを語っている。
我々人間が十字架につけて殺したキリストを神は起こし給うた。これが十字架と復活である。しかし、十字架は人間が起こしたが、復活は神が起こし給うたと理解してはならない。十字架もまた神の支配のうちにある。これは神の必然だったからである。キリストが十字架で死ななければ、復活もない。神は、人間がキリストを十字架に架けることを予知しておられた。そして、その向こうに復活を予定しておられた。神の予知と予定があって、十字架と復活がある。神の支配は過つことがない。それゆえに、十字架も復活も神が起こし給うたことであって、我々人間が支配しているわけではない。この認識をもたらすのが聖霊なのである。
従って、我々に起こる災い、悪しきことも、神の予知と予定のうちにある。神はこの世界に限定されることなく、来たるべき世界をも支配しておられる。それゆえに、我々が神の支配を信頼し、神の支配に従うならば、悪しきことさえも神の御業の中に包摂され、神の意志を実現することになる。これが、聖霊が我々を道案内する道なのである。我々はうろたえてはならない。揺さぶられてはならない。ただ、神を信じ、自分自身を神に委ねるべきである。神がすべてを支配しておられると信頼しているならば、揺さぶられることなく、確かな土台の上に立つことができるであろう。災いを越えて、確かな道を歩むことができるであろう。この道を案内してくださる聖霊が、我々のそばに立って語ってくださる。「神を信じなさい。そして、キリストの十字架を見上げなさい。十字架から神はあなたに語っておられる。十字架の言葉は我々を救い給う神の愛なのだ」と。
この聖霊の言葉に耳を開かれ、世界を開かれ、善きことがなっていく世界を認めて行こう。我々はみことばにしっかり立ち、歩いて行こう。神の道には至るべきところがある。人間の道には至るべきところがない。神の道が至るところは、すべての人間が神の意志に従い、互いに思いやり、助け合い、支え合う世界。キリストの体とパウロが表現した世界。この世界へと導き給う聖霊の道案内は確かな道案内である。この聖霊の道案内に与るために、キリストは聖餐を設定してくださった。聖餐を通して、我々のうちにキリストが形作られる。十字架と復活を神の意志として生きたキリストがわたしのうちに生きてくださる。あなたのうちにキリストが形作られるまで、終わりの日に至るまで、我々を導き給う聖霊の道案内は確かな道案内なのである。
三位一体主日の今日、父なる神と御子なるキリスト、そして聖霊なる神の世界へと導かれた幸いを感謝しよう。あなたは神の世界を生きるために召され、神の世界を喜び伝えるために生かされている。
祈ります。

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