「揺るがない基礎」

2019年6月23日(名古屋ルーテル幼稚園新築工事起工式)
ルカによる福音書6章46節~49節

「あなたがたが主よ、主よと、わたしを呼んで、わたしが言っていることをあなたがたが行わないのは何故か。」とイエスは言う。イエスを呼ぶが、イエスの言うことは行わない。何のためにイエスを呼ぶのか。自分は何もせず、イエスに何かをしてもらうためであろうか。しかし、呼ぶということは、自分では不可能だと分かって、呼ぶものである。行わないのではなく、行う力がなく、不可能だと認識したから、イエスを呼ぶのではないのか。それでも「あなたがたが行わない」とイエスは言うのか。しかし、呼んで、代わりに行ってもらうのではないと、イエスは言うのである。むしろ、揺さぶられることなくしっかりと立つために、イエスを主と呼ぶのである。主であるイエスの支配下に入って、イエスに信頼して、為すべきことを為す。これが今日、イエスが我々に求めていることである。それは「掘って、深く掘って、岩の上に基礎を据える」ということだと、イエスは言う。
「地面を深く掘り下げ」と訳されている言葉は、二つの言葉で語られている。「掘る」と「深く掘る」が続けて語られている。掘って、深く掘って、岩に至るまで掘るということである。その岩の上に基礎を据えるのだと言う。家を建てるときに、基礎を据えないままに建てるような人の家はすぐに流されてしまうと言われている。「土台」と訳されている言葉はテメリオスというギリシア語であるが、通常「土台」と訳すことになっている。しかし、原意は「基礎」である。基礎と土台と同じではないかと思うであろうが、基礎の上に土台を造るものである。ここで、イエスがおっしゃっているのは基礎のことである。テメリオスは据えるという言葉と同根の言葉であって、据えることと据えられたものを意味している。基礎は据えるものであって、据えられた基礎が揺るがないためにも、大きな岩、岩盤の上に基礎を据えるのである。
しかし、これがイエスの言葉を聴いて行うことと同定されているというのはどうしてであろうか。揺るがないこととイエスの言葉を行うことは何が同じなのであろうか。掘って、深く掘る労苦を厭わないということである。労苦なくして、掘ることはできない。この労苦は自分の力で労苦するのではない。揺るがない基礎を知っている者が労苦を引き受ける者である。
揺るがない岩に至るまで「掘って、深く掘る」と言われているように、その労苦を引き受けてこそ岩に至ることができる。しかし、その岩があると信じるがゆえに、掘る。この「掘る」という労苦を避けて、掘りもせず、家を建てることの信頼の無さを、イエスは聞いても行わないことだとおっしゃっているのである。聞くだけで、何か分かった気になり、聞いたことを実行してみることがないとすれば、それは身につかない。身につかないのだから、知識にもならない。そして、困ったならば「主よ、主よ」と呼ぶだけで助けてもらえると思っている。自分では何もせず、善いものが与えられると思い込んでいる。これは愚かで、信頼のないことである。
しかしまた、自分で行うことで何かを得ることができると考える人もいる。自分が獲得したわけでもないのに、自分の成果であるかのように思い上がる人もいる。この場合も、結局は聞くだけで行わない人と同じである。なぜなら、自分の力に頼っている限り、自分の力がなくなったときには途方に暮れてしまうからである。自分の力がないことを認めて、神に信頼して、与えられたところで与えられたように生きて行く人は、聞いて行う人である。その人は、自分の力に頼るのではなく、イエスがおっしゃった言葉の上に自分を投げ出して、力のあるなしに関わらず、労苦する人である。その人は、労苦する力を、イエスの言葉からいただく。イエスの言葉、すなわち十字架の言葉からいただくのである。イエスが言う基礎を置くべき岩は十字架である。そこに至るには労苦が必要である。労苦なくして、岩に至ることはできない。この、基礎を置くべき岩が十字架であり、十字架の言葉に耳を傾け、従う者は、その岩の上に自らの基礎を据えている。そして、労苦する。それゆえに、その人は揺さぶられることなく、イエスの言葉に従って生きる。苦難さえも、神の恵みとして引き受けて生きる。
「掘って、深く掘って、岩の上に基礎を据える」という労苦があって、ようやく家は揺さぶられることなくしっかりと建つのである。しかし、基礎を支える岩が必要である。岩盤の上に基礎を据えるのだとイエスがおっしゃるとおりである。その岩こそが揺るがないのであって、基礎が揺るがないのも岩が揺るがないからである。これを忘れるとき、我々が基礎を据えても結局、岩のない基礎となってしまうのである。
イエスの十字架の上に基礎を据えるということは、イエスの労苦の上に支えられていることを信頼することである。イエスの十字架の労苦の上に、我々の生は構築されていく。イエスの十字架の労苦は我々を支える大岩。我々を揺さぶられることなき者としてくださる岩、ペトラである。一方、我々一人ひとりは小石、ペトロである。イエス・キリストは大岩である。小石は大岩が揺るがないがゆえに、守られる。この大岩に至るまで掘る労苦は、自分自身を耕す労苦でもある。自分自身が造られた土を掘って、自分自身の深きところにまで至る。そこに十字架の岩がある。我々一人ひとりの基礎を支える大岩がある。我々が労苦して、自分を耕し、自分を見出し、自分を生きるのは大岩を知っているからである。我々小石の集合体を教会と呼ぶが、教会は大岩の上に集められた小石の集合体なのである。小さな石が集まっただけでは、再びバラバラになってしまうであろう。しかし、大岩の上に集められるならば、大岩という基礎の岩に守られて、揺るがされることなく、集まっていることができる。これが教会であり、これがキリストの体なのである。
これから、なごや希望教会が取り組んで行く新築工事もこの十字架という岩の上に基礎を据える工事である。いや、取り組みは10年以上前から始まっていた。10年を超える労苦をもって、我々も掘って、深く掘って、大岩なる十字架の上に教会を建てる備えをしてきた。教会建築は、建物を建てることではない。教会がキリストの体として建てられることである。一人ひとりが労苦しつつ、キリストの十字架に励まされながら、献金し、祈り、待ち望んできた。我々がこの建物の建築に至る中で、我々自身が教会として建てられてきたことが重要なのである。イエスの十字架の言葉を聞いて、実行する群れであったことが重要なのである。我々が献げたものは、お金だけではなく、自分自身である。使徒パウロは述べている。「それで、わたしは励ましている、あなたがたを、兄弟たち、神の憐れみの胎を通して、あなたがたの身体たちを、神に喜んでいただく聖なる生ける犠牲として献げることを、あなたがたの論理的礼拝として」と。この本質的な礼拝という生き方を通して、我々はキリストの体として形作られてきた。そして、建物の新築工事に取りかかることができるようにされたのである。それは、我々一人ひとりがキリストという大岩の上に自らの生の基礎を据えることであった。個々に集められた一人ひとりは小石に過ぎない。しかし、キリストの上に自らの基礎を据えた小石の集まりである。
我々をここまで導き給うた神は、我々のこれからも導き給うお方。このお方が我々の岩として揺るがない基礎を支えてくださる。揺るがない岩の上に基礎を据えた我々自身が教会である。一人ひとりが与えられたものを献げ、神が用いてくださった。これからも用いてくださる。これから建築が進められていく建物が神に用いられるために、我々は労苦を継続していこう。祈りを継続していこう。神が我々と建物とを豊かに用いてくださるように。我々の労苦を形にするために選ばれた設計士、施工者の一人ひとりと共に、今日から始まる新築工事の上に、神の祝福を祈ろう。神が祝福してくださった工事として、安全を守られ、携わる一人ひとりのいのちが守られますように。そして、なごや希望教会がキリストの体である教会となりますように。
祈ります。

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