「泣くな」

2019年6月23日(聖霊降臨後第2主日)
ルカによる福音書7章11節~17節

「泣くな」とイエスは母親に言い、若者に「起こされよ」と言う。「泣くな」と言うだけではなく、泣かなくとも良いようにしてくださったイエス。母親が泣いているのは、独り息子が死んでしまったからである。夫もいない寡婦は、息子だけが頼みの綱であった。その独り息子が死んでしまっては、彼女の人生はどうなってしまうのか。いや、母親は自分のこれからの人生のためではなく、息子のために泣いている。泣いている母の思いは死んだ「独り息子」のためである。したかったことがもはやできない独り息子。これからの人生を失ってしまった独り息子。生きていれば、もっと多くの働きができたであろう独り息子。彼の無念さを思って、母は泣いている。将来を奪われた息子のために泣いている。自分のためではない。息子の悲しみを泣いている母。
旧約聖書においては、独り息子の死は絶望と裁きの厳しさを物語る。エレミヤ書6章26節において語られているとおり、独り息子を失うことは、血のつながりの断絶を意味する。将来を失う絶望を表す。アモス書8章10節で語られているように、神の裁きの厳しさを表すのも独り子の死である。さらに、ゼカリヤ書12章10節にあるように、神の民を攻撃する者たちへの神の裁きをも意味する。しかし、ここで母は神に裁かれて、泣いているのであろうか。母は自らが裁かれようとも、息子が生きることを望むもの。母は、自らが裁かれることは引き受けるであろうが、将来を奪われたのは息子本人なのだ。独り息子の哀れさを思うとき、どうしようもなく、息子のために泣くしかない。
この独り息子という言葉モノゲネー・ヒュイオスは、ルカによる福音書20章9節以下のぶどう園と農夫たちのたとえの中に出てくる「愛する息子」と同じである。ぶどう園を農夫たちに貸した主人が約束の収穫をもらおうと下僕たちを送るが、ことごとく暴力的に追い返されてしまう。そこでぶどう園の主人は愛する息子を農夫たちのところへ派遣する。農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと、跡取り息子を殺害する。主人は怒り、農夫たちを殺害し、他の農夫たちに貸すことにする。この主人の悲しみと怒りは、自分のためではなく息子自身の悲しみのためである。同じく、独り子モノゲネーというギリシア語は、ヨハネによる福音書にも出てくるが、父なる神が独り子イエスをこの世に与えたことを語る。天の父は息子イエスの悲しみを思いながらも、この世のために十字架の死を与える。
イエスは、母親の悲しみを、自らの天の父の悲しみと重ね合わせて、深く憐れんだ。「深く憐れんだ」という言葉は、体で共感することを表す言葉である。イエスは母親の思いに自らの体をもって共感し、母親の悲しみを取り去ってくださった。「泣くな」とおっしゃって、「起こされよ」と言ってくださった。この言葉によって、母親は絶望から救われたように思える。しかし、母が悲しみ、泣いていたのは息子のためであるならば、母の絶望ではなく、息子の絶望が救われたということではないのか。
「彼は与えた、彼を、彼の母に」と記されている。イエスは独り息子を、その母に与えたと言われている。「与えた」ということは、その母には無かったものが与えられたということである。独り息子は戻ったのではない。与えられたのである。生き返ったのではない。与えられたのである。与えられたということは、母親が求めたからではなかった。求めることさえできない母を憐れんだイエスが、母に息子を与えたと記されているのである。これはどういうことであろうか。持っていなかったものが与えられたということである。母親は独り息子の死を通して、独り息子を持っていない者とされた。たった一人になった母に、イエスは独り息子を与えたのである。一人の人間として生きることになった母に、息子が与えられた。新たに与えられた息子は、母が頼る息子ではなく、母が母として生き、息子が息子として生きる存在が与えられたということである。息子の死を通して、母と息子は切り離されたからである。
切り離された息子と母。そして、新たに息子は彼の母に与えられた。神は、切り離し、与える。なぜなのか。すべての存在が、一人ひとり自分のいのちを喜び生きるためである。ここでは、息子に頼っていたかもしれない母と母に頼っていたかもしれない息子が切り離され、新たに与えられる。イエスは別の箇所でこうおっしゃっている。「地において、平和を与えるためにわたしがやって来たとあなたがたは考えるのか。そうではない。わたしはあなたがたに言う。むしろ、分裂だ」と。そこでは、家族が分裂することが語られている。この分裂のためにイエスが来たとおっしゃっていることを考えれば、ここで母と息子の間を分けたことに基づいて、新たに与えられた母と息子の関係なのだと言えるであろう。新たな関係の中で、彼らは一人でありながら、親子であるという関係を生きるのである。イエスが彼の母に息子を与えたということがそれを示している。
では、そのために神は若者のいのちを奪ったのか。若者の将来を奪ったのか。若者を母から切り離すために、死を与えたのか。それは分からない。しかし、若者が与えられた死は、確かに神が与えたのであり、若者が起こされたいのちは、確かに神が起こしたいのちである。イエスが「起こされよ」と若者に語っているからである。
「起こされよ」という受動態の命令形は、「起きよ」と訳して良いのだが、その内容は神によって起こされよという意味である。イエスはそう語り、若者は神によって起こされることを受動して、起き上がって座ったのである。若者の死も若者の起こされることも、すべて神の御手の中にある。イエスはこの神の力を示し給うた。それゆえに、母と息子の関係も神の御手の中で新たに与えられた関係である。一人ひとりが切り離され、再び与えられる関係を生きる。神の御手の中で、新たな関係を生きる生が、今日母と独り息子に与えられた。この後、母が死んだとしても、息子が死んだとしても、二人は神によって与えられたいのちをそれぞれに十分に生きるであろう。イエスが与えた若者は、若者としてのいのちを生きる。母も母としてのいのちを生きる。それだけで十分なのである。そして、この出来事が我々キリスト者の生と死と復活を物語っている。
我々キリスト者は、神を離れて生きていたところから、神によって与えられる死を死に、キリストと共に起こされた存在である。我々の人生は洗礼によって新たにされた人生である。一度死んで、起こされるのが洗礼である。しかも、イエスと共に死に、イエスと共に起こされると使徒パウロは言う。死を死ぬのは一人だけである。母と共に死ぬことはないし、息子と共に死ぬこともない。それぞれに死を死ぬ。この死を通して、我々は一人とされるのである。これが切り離されることである。切り離されたわたしが起こされるとき、それまでのわたしではない。新たなわたしが起こされる。この死と復活を共にしてくださるのがイエス・キリストである。他の人間は伴うことができないが、イエスは伴ってくださる。ご自身の死と同じ形に伴うことを通して、我々一人ひとりを新たに起こして下さる。我々もまた、この若者のように一人の死を死んだ者として、起こされた存在なのである。そして、母のように、新たに与えられた関係を生きる者なのである。
「泣くな」とおっしゃったイエスは、母を母として生かし、若者を若者として生かすいのちを回復してくださった。このいのちが母と独り子を神のものとしてはぐくんでくださるイエスのいのちである。我々が悲しむとき、「泣くな」と言ってくださるイエス。我々が失われたとき、「起こされよ」と言ってくださるイエス。我々が関係を切り離されたとき新たに与えてくださるイエス。このお方のもとで、我々は新しい世界を生きることができる。死と復活を通して、神の世界を開いてくださったイエスの憐れみに包まれ、一人ひとりが喜び生きることができますように。あなたのいのちはキリストのもの。キリストは神のもの。神がすべてにおいて、すべてを支配してくださる。神の支配に信頼して、生きて行こう。それぞれの道を、相応しい道を。
祈ります。

Comments are closed.