「受け入れる赦し」

2019年6月30日(聖霊降臨後第3主日)
ルカによる福音書7章36節~50節

「彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている。なぜなら、彼女は多く愛したから」とイエスは言う。「多く愛した」とは何を指しているのか。イエスの足を涙で濡らし、髪で拭ったこと。そして、足に香油を塗ったこと。それが多く愛したと言われているようである。しかし、ファリサイ派の人は、そんなことは大したことではないと見ている。それよりも、この女が町の中で罪の女であることの方がよほど大したことだと考えていた。ファリサイ派の人にとっては、女が愛することや赦されてしまっていることよりも、彼女を罪人だと断定することの方がより重要なことであった。罪人が大手を振って生きることがないように、罪人を閉じ込めて、身動きできないようにすることが正しい人間のすることだと考えている。反対に、イエスはその女が罪人としてその町で断罪されていることとは関わりなく、ただ女の行為に現れた与える愛を受け入れる。その町では受け入れ難い女を受け入れる。それが赦しである。赦しがたいものを赦してこそ、赦しであるとジャック・デリダは言っている。赦せないという不可能性を越えてこそ、赦しである。それはただ受け入れることである。
女が多く愛したのは、多く赦されていたからだとイエスは言う。その赦しは、イエスが女の行為を受け入れたということである。赦すということは受け入れることである。彼女のなすがままにさせていたイエスはすでに彼女を赦していた。しかし、ファリサイ派の人シモンには赦しなどなかった。女は赦されざる罪人だと断定し、そこから一歩も動こうとはしなかった。シモンは受け入れず、イエスは受け入れた。この違いはどこから来るのであろうか。
シモンは自らが人々を判別し、罪人を裁く者だと思っている。しかし、イエスは罪人を受け入れるように生きておられる。この違いは、シモンが自らの正しさによって他者を裁くがゆえに生じている。イエスはご自身の正しさによって、罪人を受け入れている。罪人の多くの悔い改めを受け入れている。女は、与えることにおいてイエスを愛し、シモンはイエスに何も与えないで、女から自由を奪うことにおいてすべてを拒否している。自分が正しく生きていると思っている者が受け入れる赦しを生きることができなくなっている。他者を受け入れることができないということが罪であるという認識に至らないまま、他者を裁き、排除するのが正しい人間だと考えている。これが、シモンが陥っている罪の状態である。
反対に、女はイエスに与えることにおいて、イエスを愛し、イエスは女の愛を受け入れることによって、女を赦している。女が多く愛したことが、彼女が赦されていることを示しているとイエスは言う。イエスは、女がすでに神によって受け入れられ、赦されてしまっていることを知っている。女は赦されてしまっているとは思ってもいない。しかし、彼女が与える者として生きているということが、彼女が赦されてしまっていることを示しているのだとイエスは言う。彼女は自分が赦されてしまっているという自覚はないままに、ただイエスを愛している。あるいは、イエスを愛するならば赦されるであろうなどと考えることなく、ただ愛した。それだけが真実に愛することであり、愛する者は赦されてしまっている。つまり、神に受け入れられている。それゆえに、彼女は報いを求めず、ただ与える者として生きている。
女は、行為の結果として赦しを受けたのではない。赦しを受けているがゆえに、行為した。彼女自身は自覚のないままに行為した。報いを求めるためではなく行為した。そうせずにはおられなかった。それが赦しを生きている者の姿である。それゆえに、イエスが言う「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が語っているのは、女のイエスへの行為は信仰の行為だということである。彼女のうちに働く神の信仰が彼女を赦されてしまっている者としているがゆえに、彼女は救われた者として行為している。彼女の行為は信仰が働いている行為。彼女自身が何かを得ようと働いているのではない。彼女のうちで与える愛が働いている。それが神に受け入れられた者としての赦しを生きることである。与える愛が生み出す信仰の行為は、我々が赦されてしまっていることを示しているが、我々が示そうとするとき、それは消失してしまう。示そうとした瞬間に、自己確認が生じてしまうからである。
外に現れたものから自らの内面を証明しようとすることは間違いである。我々の内面は外に現れるだけなのだ。我々が神に受け入れられていること、赦されていることを受け取っているならば、必然的に外に現れる。それだけであって、自分が赦されていると誰かに証明するために、外に表そうとするならば、その人は赦しを受け取っているとは言えない。むしろ、受け取っていないがゆえに、外なる行為によって自ら確認しようとする。あるいは、他者に証明しようとする。そのような人は赦しを受け取ってはいない。赦されてしまっていることを生きてはいない。女のように、何も求めることなく、誰かに証明しようとすることなく、内なる神の働きに従って行為することこそが、赦されてしまっている状態なのである。
我々は、どうしても確認したくなる。人に証明したくなる。そのときには、赦しを受け取ってはいない。赦しを受け取っている者は、証明しようなどとは思わないのである。すでに赦されてしまっているのだから、誰にも証明する必要などない。神がご存知なのだから、それで十分なのである。神が受け入れてくださっていることを知るがゆえに十分なのである。イエスは、その女の赦されてしまっている状態を認めてくださった。それはまた、神が受け入れている赦しの中で、イエスが彼女を受け入れていることだった。
ファリサイ派の人シモンのように、罪人を断定し、そこから一歩も抜け出せないようにしてしまう社会は、罪の中に浸り込んでいる。女は、その町の中で罪の女であると言われていたが、人が何と言おうとも赦しを受け取っていた。神がわたしを受け入れてくださっていると信じた。その信仰が、彼女のうちで働き、外なる行為が生じたのである。その行為は感謝して、喜んで行ったと表現するようなものではなく、ただ無為に行われた行為だった。作為なき行為は、何も求めず、与えるだけの行為である。それが神の愛の行為であり、女が神に促されて為した行為だった。
我々は無為に行うことが難しい。自覚的に、主体的に行うことが良いと考える。自覚がなければ、責任を負っていないと考える。倫理を守ろうとする人はこう考えるものである。無為の行為では倫理にはなり得ない。自覚的行為でなければ倫理的には責任を問うことができない。女が自覚的に罪を犯したことはシモンも認める。しかし、自覚的に悔い改めの行為をしていないのだから、罪人のままだと考える。イエスの足に香油を塗ったところで、悔い改めとは認められない。正式な悔い改めの行為が必要である。倫理的筋道を大事にするがゆえに、シモンはただ受け入れるということができない。それゆえに、イエスを怪訝な目でみてしまう。自らが自覚的に生き、自覚的に罪を悔い改めていると思っている者が、人を裁く。彼らにとって、無為であることは何の保証にもならない。無駄なことをしているのだ。こうして、無為における純粋さを認めることができない。純粋さにおける神の働きを認めることができない。神の働きを受け入れることができない。そして、神に従うことができない。
イエスは十字架を引き受けるときと同じく、ここでも神の働きを受け入れている。女のうちに神の赦しの意志を認めている。イエスは神の意志を受け入れるように、女の赦しを受け入れる。そして、赦された者の無為の奉仕を受け入れる。イエスが与えてくださる体と血は、純粋に与えられる神の愛。見返りを求めない愛。この愛にはぐくまれ、我々は無為を生きる者とされる。必要なとき、必要な人に、必要な場所で働き促したまう神の意志を受け入れる者としてくださるイエスに従って生きよう。
祈ります。

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