「死と復活のメシア」

2019年7月7日(聖霊降臨後第4主日)
ルカによる福音書9章18節~26節

「しかし、あなたがたはわたしを何者であるというのか。ペトロは答えて、言った。神のキリストと」と記されている。ペトロはイエスのことを「神のキリストと言う」と言った。「キリスト」とはヘブライ語ではマーシアハ、メシアのことである。それは「油注がれた者」を意味するがゆえに、ペトロはこう言ったのである。「あなたは、神が油注がれた者です」と。
「油を注ぐ」という言い方は、ヘブライ語ではマーシャーと言い、ギリシア語ではクリオーと言う。「神の」という所有格は主格的所有格と解されるため、「神が油注いだ者」という意味になる。ペトロはイエスのことを「神が油注いだ者」であり、神が任命したお方であると述べたのである。これが「キリスト告白」として後々受け継がれることになったペトロの信仰告白である。この告白の後で、イエスは「人の子」についてこうおっしゃっている。「人の子は、多くのことを受苦し、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから不合格として排斥され、殺され、三日で起こされる」と。つまり、人の子、キリストとは死と復活のメシアだとおっしゃったのである。それゆえに、このメシアである人の子に従う者は「自分を否認し、日毎に自分の十字架を取って、わたしに従え」ともおっしゃった。死と復活のメシアに従うとは、同じように死と復活を生きることだとイエスはおっしゃったのである。告白する者の生の中に、メシアとしてイエスは生きてくださるということである。
イエスをメシア、キリストと告白するということは、イエスに従うことであり、自分自身も自己否認と十字架においてイエスの後をついて行くということである。信仰告白は口先だけの告白ではない。口先だけの告白は誰でもできる。人々が言うように、客観的に見て、イエスを判断することは誰にでもできる。エリヤではないか。預言者ではないか。と言うことは誰にでもできる。それは告白ではなく、自分とは関わりない客観的な存在として言ってみるだけである。自分とは関わりないのだから単なる噂話である。それは告白ではない。告白はイエスが言うように、イエスに従って生きるということである。それゆえに、我々が行う信仰告白は自分自身の生き方に関わっていることなのである。
自分の生き方に関わっているとは言え、勝手に生きるわけではない。告白する者たちは同じことを言うのである。さらに、告白する者たちは、告白される者と同じことを言うのである。告白するというギリシア語はホモロゲオーという言葉で、同じことを言うという意味であるから、告白する者たちは告白される者と同じことを言う。イエスをキリスト、メシアと告白するということは、告白する我々がキリスト、メシアが語っていることと同じことを言うのである。同じことを言うのだから、同じように生きるのである。死と復活のメシアと同じように生きる。それがイエスをメシア、キリストと告白する者の生き方になるということである。
我々はキリストと同じ生き方をすると告白しているのである。キリストがわたしを救ってくださったようにわたしも他者のために生きる、他者を生かすために生きるということである。その生き方は、自分を否認して、日毎に自分の十字架を取って、イエスに従うということである。自己否認は、自分が何者でもないと告白することである。何者でもないのだから、自分の力で何かができるとは思わない。ただ神の力によってわたしは生かされていると告白する。わたしには力はないが、神がわたしを告白する者としてくださったと信じる。神の力を信じるがゆえに、自分自身に負うようにと与えられた十字架を取って、イエスに従う。日毎に十字架を取るということは、日毎に十字架が与えられるということである。日毎の十字架は、その日その日に負うべきものとして神が与え給うた十字架である。イエスが、神が負うように与え給うた十字架を取って生きたように、わたしも自分の負うべきものを引き受けて生きる。これが、我々がキリスト者として、メシア告白を行うということである。我々がイエスをメシア、キリストと告白するということは、神が任命したメシアと同じ生き方をする者として、神は我々も任命しておられると信じることでもある。その際に、我々が傲慢にならないという意味でも、まず自己否認がなければならないのである。
自己否認とは、イエスが長老たちによって否認されたように、自分を否認することである。長老たちは、イエスがメシアに相応しくないと否認した。試験して、不合格としたということである。この不合格認定が自己否認である。我々は自分自身を不合格認定するのだが、何に不合格なのか。義とされるには不合格であると認めることである。つまり、罪人であると自覚することである。罪の自覚を持つことが、自己否認である。また、キリストに従う者としては不合格であることも認めることであろう。そうであれば、我々はキリストに従い得ないということを認めることによって、キリストに従う者とされるということである。我々が罪の告白をするということは、自らがキリストに従うためには相応しくない者であることを告白することである。その上で、自分の十字架を取って従うのである。力もなく、相応しくもない者が自分の負うべきものを負うであろうか。負わない。負う力もない。それなのに、自分の十字架を取れとイエスは言う。どうしてなのか。
我々が自分の十字架を負うことができないと自己否認するとき、我々は自分の力で負うわけではないと告白しているのである。キリストの力によって、我々は自分の十字架を負う。キリストはそのために、十字架を負ってくださったのだ。キリストはキリストを告白する者が負うべき十字架を負ってくださった。それゆえに、我々は告白するとき、キリストが負ってくださったことに従って負う力を与えられる。与えられるとは言え、その力は信じることによって与えられるのだから、わたしの力ではなくキリストの力である。キリストの力によって自分の十字架を負うということがキリストに従うことなのである。キリストが、神が負わせ給うた十字架を負って、死に至るまで神に従順であったように、我々もまた神が負わせ給うわたしの十字架を負う。キリストの力を信じ、キリストに従順に従うことで、神に従う。これがキリスト者である。
我々が信仰告白することは、告白したように生きることであると言われると、そのように生きることはできないと思ってしまうであろう。しかし、告白する者はそのように生きる者とされていくのである。あなたの力によっては不可能である。しかし、神の力によって告白を生きるようにされる。告白する言葉と同じように生きるのは、我々が告白する言葉が我々の言葉ではないということである。神の言葉である。語られたことを実現し給う神の言葉を我々は告白する。この告白によって、我々は神の言葉の力によって、キリスト者として形作られて行くのである。
信仰告白は、我々がキリストと同じものとして形作られる神の働きである。告白する者と告白される者が一体となるように、神の言葉は働き給う。我々は死と復活のメシアと一体とされる。それが「自分を否認し、日毎に自分の十字架を負い、イエスに従う」ということなのである。礼拝の度に我々が告白する信仰告白は神秘的な出来事である。我々の力でイエスに従うのではない。神の神秘的な力によって、キリストと同じものとされていく神の働きを受け取ることが信仰告白なのである。
この信仰告白に基づいて、キリストの体と血に与る聖餐をキリストは設定してくださった。我々がキリストと同じ形とされるために聖餐を設定してくださった。聖餐の度に、我々はキリストの愛を受け取る。わたしに従う力を与えようと、キリストは聖餐の中に現臨してくださる。今日もまた、現臨し給うキリストをいただき、キリストに従う力をいただき、共に生きていこう。我々は、死と復活のメシアを信じる者として、自己否認である死と、キリストに従う復活を生きる。あなたはキリストのもの。神のもの。メシアの力に生きる者である。
祈ります。

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