「前に向けて」

2019年7月14日(聖霊降臨後第5主日)
ルカによる福音書9章51節~62節

「鋤の上に手を置いて、後ろへと視線を投げる者は、神の国に、よく置かれていない者である」とイエスは言う。「相応しくない」と新共同訳で訳されている言葉は「良い」と「置かれる」という言葉でできている。「良く置かれていない者」だとすれば、神がそのように置いたということであろうか。自分で自分をそのように置いたということであろうか。いずれにしても、「良い方向に置かれていない」ことである。そのような人は相応しくないというよりも、神の国に顔を向けていないということである。神の国の方向に向かって生きていないということである。
イエス一行を村へ受け入れなかったサマリア人たちも同じである。イエスが顔を固めた方向が、エルサレムへ旅することだったがゆえに、彼らはイエス一行を受け入れなかった。サマリア人と対立しているエルサレムに顔を向けて、固めているということが、彼らに敵対することに向かっていると考えたからである。しかし、実際は、エルサレムにおいて十字架に架けられることに、イエスは顔を固めていたのである。これは、サマリア人たちには理解不能であった。エルサレムに向かうユダヤ人はすべて、サマリア人を蔑む総本山に同調していると考えていたからである。
弟子たちがサマリア人たちを滅ぼしましょうかと言う言葉に、イエスは彼らの申し出を拒否し、別の村へ行った。イエスが顔を固めていたのはエルサレムではない。神の時としての十字架であった。イエスは、目の前の現実に顔を固めていたわけではない。目の前の現実を通して実現されるであろう神の意志、神の言葉に顔を固めていた。それが神の国に対して、顔を向ける生き方である。それゆえに、最後の人に対してイエスが言う言葉は、顔は前に向けるものだという意味である。たとえ、前に受難であろうとも、顔を向けて生きる。これが、イエスが顔を固めた方向である。
前に向かって生きるということは顔が向いている方向に向かって生きるということであろうか。あるいは、時間的な前と考えられている将来に向かって生きるということであろうか。イエスがここでおっしゃっていることは、体と魂と霊とが統一的に一定方向に向かうことではないか。鋤に手を投げるときには、当然体は前に向かっている。しかし、視線を後ろに投げるときには、体と顔とが反対方向に向かっている。そのとき、顔と体が反対であるだけではなく、内面が向かっている方向と外面が向かっている方向とが分裂している。これが問題なのである。
外面と内面が同じ方向を向いているならば、それがイエスに従わない方向であろうともそれで良いのではないか。その人の全体が統一された方向に向いているからである。もちろん、それでは神の国に向かってはいないが。それでも、その人は自分が向いている方向の責任を負っていると言えるであろう。無自覚にではあろうが、責任を負っている。いや、負わなければならない。しかし、外面と内面が分裂した方向に向いている人は、統一さえも失って、混乱している。どこにも行けない状態になっている。それが「良く置かれていない者」である。
イエスとは反対の方向に、全体が統一的に向いている場合、もちろん神の国に対しては、反対方向に向いている。その人も「神の国に、良く置かれていない者」である。神の国に、良く置かれている者とは、内面も外面も神の国の方向に向けている者である。それは、イエスが顔を固めた方向、十字架に顔を向けている者、顔を前に向けている者である。これは時間的な前ではない。神が置いた方向という前である。それがすべてを受け入れる方向である。そして、神の国に入る方向である。
神が置いてくださった方向に良く置かれている者は、置かれたことを受け入れて生きている。それゆえに、その方向に苦難が待ち受けていようとも受け入れる。その方向に自分を受け入れない存在があろうとも、その存在をも受け入れる。イエスが別の村に向かったのもそのためであり、十字架に顔を向けて固めたゆえである。
イエスは前に向けて顔を固めた。神が置かれた方向に顔を固めた。後ろに視線を投げることなく、苦難を引き受けた。それがイエスの生きる方向である。それは、顔だけではなく、イエスというお方全体が、ご自身を置いたお方に従っているということである。これを見失うのは、置かれた方向に顔を向けず、後ろに視線を投げる者である。その人の全体が分裂している者である。その人の生きる方向は定まらず、人に揺さぶられ、あれかこれかに迷い続け、正しい思考もできなくなる。こうして、我々は罪の迷いの中を、右往左往するのである。
我々キリスト者は、罪の惑わしから解放され、十字架の方向に生き方全体を固めた存在である。我々が向かう方向に苦難があろうとも受け入れ歩き続ける者である。それは、もちろん復活の方向であり、神の国の方向である。最終的に我々が顔を固めて向けているのは神の国なのである。サマリア人たちには、イエスの生き方、存在全体を前に向けて生きる生き方が理解されなかった。それゆえに、彼らはイエスを受け入れることはなかった。それは神の国の方向を理解しなかったことであり、神の国を受け入れなかったということでもある。
ある人が目指している方向は、他者には理解されない。他者は、相手の内面が向いている方向を理解することはない。外面が向いている方向だけが見えているからである。イエスのように神の国に顔を固めて、前に向けている存在も、一般的ユダヤ人たちのようにエルサレムの繁栄に顔を固めて、前に向けている存在も、同じ方向を向いていると思ってしまうからである。これは外面に現れている方向性の違いを混同してしまうことである。いや、外面だけを見る者は混同してしまうということである。我々キリスト者も、世界を混乱させる者として、混同される者である。この世の支配に対して反対する者として、その顔を向けている方向だけで判断されるからである。そのとき、同じ穴の狢だと思われてしまうであろう。しかし、我々は神の国に顔を固めて向けている者として、揺るぎなく生きるべきである。この世に理解されるように生きるのではなく、自分自身の責任において、この世の混同を引き受け、神が置き給うた方向に向かって歩み続けるのがキリスト者なのである。その生き方を理解する者は理解するであろう。理解しない者は理解しないであろう。ただ、それだけである。
愚かな人間だと言われることもある。イエスご自身もエルサレムに行かなければ、十字架に架けられることもなかったであろう。しかし、イエスは神が置いた方向に向かって、顔を固めた。イエスは人から愚か者と見られようとも揺さぶられることなく、神の国という前に向けて、生き方全体を固めた。臆病者のように見られようとも、前に向けて顔を固めた。このお方に従うということは、前と後ろに分裂することなく、前に向けてすべてを統一することである。そのとき、すべてを引き受ける者として生きて行くことができるであろう。
分裂しているとき、人は失敗を誰かの所為にする。責任転嫁する。そして、いつまで経っても自分の責任において生きることができなくなる。使徒パウロが言ったように「後ろのものを忘れる」ことである。今置かれている状態を受け入れることである。誰の責任でもなく、神がわたしをこの方向に置き給うたと受け入れることである。そのとき、「神の国に、良く置かれた者」として生きて行くことができる。
この世に捕らわれない生き方とは、責任転嫁しない生き方である。サマリア人の所為ではないと、別の村へ向かうイエス。頭を横たえる場所はどこにもないと、神の国に向かうイエス。死者のことに手を出すなと、生きている者として生きるイエス。このお方の行く先に神の国がある。前に向けて生きる者は神の国に生きている。あなたのすべてを前に向けて置き給うた神が、あなたの生きるべき方向を定めてくださっている。あなたは良く置かれた者。前に向けて、顔を固めて、イエスに従って行こう。神の国に至るまで。
祈ります。

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