「一つの欠け」

2019年7月28日(聖霊降臨後第7主日)
ルカによる福音書10章38節~42節

「マルタ、マルタ、あなたは分裂して、混乱している、多くのことについて」とイエスは言う。イエスが「思い悩むな」と教えられたときに使われた言葉、メリムナオーがここで使われている。この言葉はメリゾー「分ける」という言葉とムノーマイ「思う」、「記憶する」という言葉からできている。思いが分裂している状態を表す言葉である。もう一つは、トリュバゾー「心配で混乱する」という言葉である。マルタの心は多くのことについて、分裂し、混乱していた。人間は多くのことを一度に行うことも、考えることもできない。イエスは「二人の主人に仕えることはできない」ともおっしゃっていた。そして、こうもおっしゃっていた。「あなたがたの天の父は知っておられる、あなたがたが必要としていることを、これらのものを」と。必要をご存知で総合してくださるのは神である。分裂した心、混乱している心は、人間が自分の力で何とかしようと考え、多くのことを総合できない状態を表している。マルタは、人間にはできないことをやっていた。そして、分裂し、混乱していた。彼女が分裂して混乱していた多くのこととは、「もてなし」である。
「もてなし」と訳されているディアコニアというギリシア語は「食卓の世話すること」であるが、食事だけではなく奉仕一般にも使われる。マルタはディアコニアのために、多くのことに分裂し、混乱していた。物事は、一つひとつ行うしかない。目の前にあることを一つずつ誠実に行っていけば良い。しかし、分裂した心は、「あれもあった」、「これもあった」と思いは分裂し、目の前のことに集中することができない。そして、総合することができず、混乱してしまう。これがマルタの上に起こっていた。我々は、目の前に現れる多くのことに振り回されるものである。振り回されて、集中することができなくなってしまう。我々は、一つのことしかできないということを忘れてはならないのだ。そして、一つのことをなすべきなのだ。それが「必要」という事柄である。
「必要」という言葉は、「欠乏」である。欠乏しているがゆえに、必要である。究極的に必要な欠乏とはいったい何か。マリアが求めていたものがそれである。「もてなす」ことではなく「もてなされる」ことである。それが「マリアは善い部分を選んだ」と言われていることである。
マリアが選んだ「善い部分」の「部分」という言葉はメリス「断片」を表し、「善い」という言葉は神ご自身を表している。マリアが選んだのは神ご自身である欠けた断片だとイエスはおっしゃっている。それはマリアが神に仕えていただいて、欠けを満たすという意味である。我々は仕えるというと、誰かの欠けを満たすことだと考えてしまう。まず我々が満たされなければならないことを忘れてしまう。我々に欠けているもの。それが神ご自身である。
我々自身は自分では何もすることができない存在である。神がすべてを備えてくださったがゆえに、我々は今を生きることができる。誰かに何かをしてあげるという場合も、その力を自分が持っているわけではない。神が力を与えてくださって、為させてくださる。我々のうちには、何もないことを忘れてしまうとき、我々は分裂し、混乱して、何もできなくなってしまう。マルティン・ルターがアウグスティヌスを批判したことも、そうであった。「律法を聖霊の力により完全に成就する人は神の憐れみを懇願しなければならない。神は律法によってではなく、イエスによって救済すると定めている。いかなる行為によっても安らかな心は得られない。」と。ルターは、神の憐れみを懇願しなければならないと言った。これが、ルターが見出した信仰義認の本質である。
我々が信仰によって義とされるということは、我々の信仰によって義とされることではない。神がみことばをもって与え、起こし給う信仰によって義とされる。その義は信仰と同じであって、善きことを行う主体として、我々のうちで働く。信仰とは我々のうちにおける神の働きであるとルターは語っている。そうであれば、我々は自分で善を行うことはできないとまず知らなければならない。神の憐れみがなければ、律法を行うこともできないと知らなければならない。それこそが唯一必要なこと。唯一我々に欠けていることなのである。
我々は神の憐れみがなければ何も為し得ないと知ること。それが一つの欠けである。この欠けが満たされるならば、我々は神の力によって何事も為し得る者とされる。その一つが欠けていれば、我々は分裂し、混乱して、何も為し得ない。ルターは「キリスト者の自由について」の第13段において、こうも言っていた。「私たちはここで、行いのように、行為者が行うものを求めているのではなくて、神を崇めて、行いを行う行為者自身、すなわち、行いの主体を求めているのである。これは心の信仰以外にはない。これこそ義の首(かしら)であり、義の全本質である。」と。ルターは、我々の行為の主体が信仰であることを述べている。しかも、その信仰は神が我々のうちに注入した信仰であり、我々のうちから発した信仰ではない。この信仰が欠けているとき、我々は何を為しても悪しか行わないのである。
マリアはこの悪しか行わない自分自身の欠けを知っていた。一つの欠けを知っていた。それゆえに、イエスによって満たされることを求めた。では、マルタはどうなのか。彼女もまた、それを見出したのだ。彼女は、自分が分裂し、混乱していることを感じた。マリアを責める気持ちを持っていることをイエスに告白した。マルタはマリアを直接責めるのではなく、イエスに告白したのだ。マルタ自身が感じた自らの一つの欠けを満たしてくださるのはイエスであると感じ取ったのだ。彼女も一つの欠けを知っていた。そして、満たされた、イエスによって。イエスのみことばによって。
二人の姉妹は、共にイエスに懇願した、神の憐れみを。イエスは、どちらの思いも受け取り、二人の欠けを満たしてくださった。我々は、行為を求めるとき、欠けを見失っている。我々自身が罪人であることを見失っている。マルタはこの自分自身を見失っていることを知って、イエスに懇願した。思い煩いに分裂し、混乱している自分自身を総合してくださるのはイエスであることをマルタは知っていた。これが彼女の幸いである。マリアを責めたところで、一つの欠けは満たされることはない。イエスに懇願しなければ満たされることはない。これを見出したマルタは、神に愛されている存在なのだ。
彼女は、最初にイエス一行を自分の屋根の下に迎え入れた。このとき、彼女は自分のうちに迎え入れた。迎え入れたがゆえに、彼女はイエスに懇願することができた。イエスに仕えていただくことができた。迎え入れていなければ、イエスに仕えていただくことはできなかった。マルタの迎え入れは、神が導き給うた迎え入れ。マルタから発した迎え入れではなかった。マルタは、イエスを迎え入れたのではなく、迎え入れるように、神によって導かれたのである。そして、一つの欠けを知り、欠けを満たし給うお方を知り、懇願することができた。すべては神が備え給うたこと。すべてを満たし給うお方、善なるお方自身が、マルタをまず迎え入れてくださった。
我々は一つの欠けを見出すようにと、神によって迎え入れられている。神が我々に仕えてくださるために、迎え入れられている。ルターが語ったように、礼拝とは、我々が神に仕えることではなく、神が我々に仕えてくださる神の働きである。我々は礼拝において、一つの欠けを満たしていただき、遣わされていく。分裂し、混乱しているこの世へと遣わされていく。一つの重要な欠けが何であるかを伝えるために、遣わされていく。我々自身、一つの欠けを満たしていただいた者として、出かけていこう。あなたは、イエスを迎え入れたマルタとマリアであり、イエスに迎え入れられたマルタとマリアである。我々は、ただ一つの欠けにおいて一つとされているマルタとマリアである。我々を一つにしてくださるイエスの力に満たされて、出かけていこう、それぞれが置かれている場所へ。欠けを満たし給うお方を伝えるために。
祈ります。

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