「愛の源泉」

2019年8月4日(平和主日)
ヨハネによる福音書15章9節~12節

「それがわたしの掟である。あなたがたが互いを愛するという、ちょうどわたしがあなたがたを愛したように」とイエスは言う。平和主日に読まれる福音書はイエスの愛に基づいた互いへの愛についての言葉。イエスが弟子たちを愛した愛が彼らの愛の源泉であることが語られている。しかも、イエスの愛は「ちょうど父が私を愛したように」と言われているのだから、すべての愛の源泉は父なる神である。神の愛がすべての源泉である。
人間は愛することができない。平和を作り出すこともできない。人間同士の間には、隔ての壁、隔壁が出来上がっているからである。この隔壁を作ったのは人間である。自分を守るために隔壁を作り、我々は異物が侵入しないようにした。異物は、我々の和を乱すと考えたからである。我々人間が考える和とは、同じ考え方で固まることである。他の考え方を受け入れないことで、和が生じる。それが、我々が考え、求める平和というものである。しかし、このような平和は敵を作り、仲間の壁を作ることで出来上がる。すべての者をその壁のうちに入れることはない。いや、壁は一つの考え方に固まることだから、一つの考え方になるならば受け入れようということになる。こうして、世界は一つになると考える。
我々の世界は、多くの言語で溢れている。言語は文化であり、言語が異なることで文化が異なり、思想も異なる。言語で表現できないものは、その言語世界では存在しない。従って、自分たちの言語世界に入らない存在は、存在しないも同然なのである。こうして、我々は自らの言語世界で、仲間を作り、その世界に適合する者だけを受け入れる。皆、同じように考え、同じように生きることで平和が生じると考えてしまう。このような思考の下に生じる平和は、不自由な平和であり、誰も喜ばない。にも関わらず、我々は自分が作り上げたものを壊したくないがために、壁を堅牢にして、異物を排除していくのである。自分がその壁の向こうに追いやられたくないと、誰かを追いやることを考えてしまう。こうして、我々の平和は、誰かを受け入れないことによって成り立っている。これがいわゆる平和と言われる状態である。
ヨハネによる福音書ではそれを闇と呼び、この世と呼んでいる。真実の光は闇を照らす。この世が見ようとしない闇、隠したい闇を白日の下にさらす。真実の光は真理を明らかにする。真理とは隠れなきことである。隠れなく生きることを嫌い、闇は光を避け、光から逃げる。真理を排除して、平和だと思い込む。真実の自分に向き合うことなく、隔壁の中で平和を享受する。この世で戦争が起こるのは、隔壁の拡張のためであり、戦争は本質的に侵略である。侵略ではなく、解放だと言い訳しながら、自分たちの価値を押しつけていく。自分たちの価値で囲まれた隔壁の中に多くのものが入ってくれば、平和が広がると考える。それはすべて不自由な状態の創設なのに。
イエスは言う。「父がわたしを愛したとちょうど同じように、わたしはあなたがたを愛した」と。愛とは受け入れることである。愛とは憐れみである。愛とは敵が敵として生きることを可能にする憐れみである。それゆえに、イエスはこうおっしゃっているのだ。「父が、わたしがわたしであるようにと受け入れ、憐れんでくださったように、わたしはあなたがたがあなたがたであるようにと憐れみ、受け入れた」と。「だから、同じようにあなたがたも互いを受け入れ、憐れみをもって愛せ」と。敵を敵として守ることが「敵を愛する」ことである。敵が仲間になることではない。敵は敵であり、仲間は仲間である。それぞれに保たれ、守られてこそ、平和である。それぞれの言語世界を愛し、文化を守り、多様な世界を保持すること。それが平和である。イエスがおっしゃる「互いを愛する」とは、預言者ミカが語るそれぞれの神の名によって歩む世界である。
多くの異なる存在がそれぞれに存在を許され、受け入れられ、守られる世界。このような世界は、我々人間が造り出すことはできない。もともと、神が造り出していた世界は、さまざまに異なるものが存在する世界であった。この世界を破壊したのは我々人間である。地球の破壊、自然の破壊は、我々人間が隔壁を作り出し、拡張してきた結果である。我々は、平和を破壊してきたのである。神が造り出していた世界は、平和であった。この平和をヘブライ語ではシャロームと表現した。欠けることなき球体のような世界がシャロームである。異なる存在が神の世界に包まれている状態がシャロームである。神が総合的に一つとしている状態がシャロームである。この神の総合を破壊し、自分たちの世界を作ろうとした人間の罪によって、世界は混乱に陥った。今も、混乱したままである。この混乱の闇の中に、神は独り子を与え給うた。ご自身の肉において、隔ての壁、隔壁を破壊し給うたのは、十字架のキリストである。破壊のすべてをご自身の上に引き受けてくださったキリストの十字架において、世界は平和への道を開かれた。それぞれに異なる道を歩みながらも、一つとなる世界を開かれた。それが父なる神の愛によって開かれた、新しい世界である。
キリストが破壊し給うた隔壁は、仲間の壁、同一なものの壁、人間が作り出した壁。この壁の破壊において、互いが守られる世界が生じた。互いが守られるということが、互いを愛する世界である。異なるものが異なるものとして守られる世界である。多くの言語世界が守られる世界である。多くの文化が守られる世界である。多くのものが多くのもののままに守られる世界である。このような世界を創出するのは、一なる神の愛である。多くのものを守る一なる愛が、父の愛、イエスの愛、すべての愛の源泉である。この源泉から、流れが溢れるようにと、イエスは十字架を引き受けてくださった。
バベルの塔において生じた多言語世界は、人間が一つの言語によって、一人の人間によって支配される世界を作ろうとした結果である。多言語世界を作り出すことにおいて、神はそれぞれの言語を守った。それぞれの文化を守った。それぞれの人間を守った。バベルの塔は、人間的一なる世界を表し、多言語世界は神の一なる世界を表す。神の一なる世界は、神の愛から生じた世界。我々が生きる多言語世界は、異なるものを神が受け入れ、生かし給う世界である。この世界を一つの言語世界にすることが平和なのではない。多言語世界を守ることが平和なのである。多言語世界において、守られる地域性、個別性を保持することが、我々が平和を造り出す者として生きることである。それが「互いを愛する」というイエスの掟を生きること、ミカの預言の実現である。
我々は父なる神の愛に平和の源泉を持っている。愛の源泉を持っている。この愛の源泉を我々は守ることはできない。ただ神だけが保持しておられる。それゆえに、我々人間は神に従うことだけが求められる。愛の源泉である神に従うとき、この世は神の世界、神の国となっていくであろう。神だけが善きものを満たし給うお方と信頼する歩みが平和への歩みである。
愛の源泉はキリストの十字架である。ヨハネによる福音書において、今日の箇所に続いてイエスはこうおっしゃっている。「このように大きな愛を、誰も持っていない。誰かが、その友のために、自分の魂を置くというような愛を」と。人間はこのように大きな愛を持ってはない。持っているのはキリストだけ。キリストはご自分の魂を友として、我々人間のために置いてくださった。このお方の魂と一つとされるとき、我々のうちに生きてくださるキリストによって、大いなる愛を生きる者とされる。
我々人間は愛することのない罪人である。この罪人を愛し、ご自身の魂を神の前に置いてくださったキリストが、我々のうちに生きてくださる。聖餐を通して、与えられるキリストの愛、神の愛が、我々のうちにキリストを形作ってくださる。あなたがたが平和を生きる者となるために、あなたがたが互いを愛する者となるために、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。我々がキリストの体、キリストの教会となるようにとご自身を与え給うキリストがおられる。すべての異なるものを受け入れ給うお方に従って、生きて行こう。祈ります。

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