「神の所有」

2019年8月11日(聖霊降臨後第9主日)
ルカによる福音書12章13節~21節

「誰が立てたのか、わたしを、裁判官や分配者として、あなたがたの上に」とイエスは言う。イエスを誰かが何かとして立てるという場合、イエスは誰かの権威の下にあることになる。イエスは人間の権威には従わない。すべての権威の根源である神の権威に従う。それゆえに、イエスを誰も何かとして立てることはできない。できるのは神のみである。
兄弟から分配されるように言ってくれと求める男に対して、それは神が立てた者がすべきことであり、神の権威によってのみ可能であるとイエスは言う。それゆえに、たとえをもって、自分の所有を確保しようと考える人間の愚かさを語る。所有しようとしても、いのちを所有はできない。神に返さなければならない時が来たる。そのとき、確保した所有は誰のものになるのかと、イエスは問うている。ここで重要なのは、いのちであり、所有物ではない。我々が自己の所有だと考えるものはもともと神のもの、神の所有である。神の所有を、我々は使わせていただいているだけである。いのちはその最たるものである。
金持ちが豊作に恵まれたのは、彼の力ではない。彼が豊作を作り出すことはできない。それゆえに、偶然にも豊作に恵まれた幸いを喜び、所有を確保しておけば、もう労苦する必要はないと考えた。イエスに分配者になってくれと言ってきた男がこの豊作に恵まれた金持ちと同じだということであろうか。確かに、自分のものを確保したいと考えたその人は、同じ考え方に陥っている。しかし、彼に分配しない兄弟がこの金持ちと同じなのである。なぜなら、遺産はその人の労苦の結果ではなく、与えられたものだからである。それゆえに、あなたの兄弟はこの愚かな男と同じだとイエスはおっしゃっているのである。神が豊作を造り出して、その人に与えた。その豊作をどう使うかが、その人の課題である。神の所有である豊作は、その人が使用するものである。使用するということは、必要な人のために使うこと。あなたの兄弟が如何に所有を確保しても、自分のいのちを返還するときが来たる。同じようにはなるなと、イエスは戒められた。
貪欲という事柄は、与えられているもので満足できず、もっともっとと自分の所有を増やしていくことである。そのようになったとき、人間は所有の増加を自分の生き甲斐だと思い、所有こそが自分のいのち、自分のすべてであると思う。そして、手放すことができなくなる。一方、使用の場合は、手放すことが可能であり、分かち合うことも可能である。自分のいのちは持っているものに根源があるのではなく、神によって生きていると認識しているからである。所有ではなく使用で生きる人は、必要な人に必要なものを提供し、為すべきことを為す。互いに愛し合うという戒めにおいても、敵を愛するという戒めにおいても、他者がより良く生きるように仕えることが重要なことなのである。
もちろん、イエスのように何もなく生きるということ、野宿生活を続けるということは我々には不安である。明日どうなるか分からない生活では、こどもを育てることもできない。老後の生活のために蓄えなければとも思う。これも貪欲であろうか。必要なところに必要なことを行うための備えではないのか。たとえの金持ちは、土地を持ち、自分では労苦することなく、豊作に恵まれ、新しく建てた倉に収穫を収めることができた。これ以上心配しなくても良い生活のために、収穫を蓄えた。それまでも倉を持っていたにも関わらず、すでに持っていた倉を破壊し、より大きな倉を建てた。安心して暮らすための備えは万全である。しかし、イエスは貪欲だと言う。
何も労苦せず、安穏と暮らすために、我々人間が造られたのではない。我々は労苦して、汗を流して、土を耕す。これが堕罪の後に、男に告げられた生き方である。労苦することが、我々人間が生きているということである。働くことができる身体を与えられているにも関わらず、飲み食いし、楽しんで生きると金持ちは言うが、それでは生きているとは言えない。神はそのように生きるために、我々を造られたのではない。堕罪の前にも、アダムは土を耕す人間として造られていた。堕罪後も土を耕すことで、自分を耕し、労苦するように定められた。労苦することが、我々が生きることである。所有を増やし、安穏と暮らすことではなく、与えられたものを使用して、労苦して生きることが我々に与えられたいのちの在るべき姿である。
この労苦する生き方は、イエス・キリストの生き方であり、十字架に至るまでの神への従順である。神に従うということは労苦して自分を見つめ、神によって自分を新たにしていただくことである。労苦する人間は自分を弁えて、誠実に、謙虚に生きる。大きなことを求めることなく、小さなことに忠実に生きる。神が与えてくださったいのちを使って、共に生きる。与えられたいのちを使って労苦するように他者を励まし、支える。我々のいのちは神の所有であると信じて、神に信頼して一日一日を大切に生きる。そこに貪欲はない。
「多く赦された者は多く愛する。」と罪の女の箇所でイエスはおっしゃった。罪の女は、自分に与えられた香油を使って、イエスに仕えた。彼女は香油を所有とせず、使用した。その根源には罪の自覚がある。罪を自覚しない者は、貪欲に支配されていく。所有を求め、神の国に入るための資格を所有したいと求める。所有を増やすことで、自分がすべてを可能にすることができると思い上がる。貪欲な人間は、誠実に労苦することを厭う。貪欲な人間は、自分の所有を確保するために他者を排除する。こうして、我々人間は共に生きることができなくなる。他者を生かすことができなくなる。イエスはご自分が十字架に死んでもなお、我々が生きることを望まれた。我々のいのちを守るために、ご自分のいのちを神の前に置いた。このお方が人間として生きる道を示してくださった。このお方の生き方に倣うようにと神はイエスを復活させてくださった。
イエスの十字架こそ、我々が如何に生きるべきかを語る神の言葉。「自分のいのちである魂を救うことを意志する者は、それを破壊する。わたしのゆえに自分のいのちである魂を破壊する者は、それを救うであろう」とイエスはおっしゃった。イエスが言う自分のいのちである魂とは、わたし自身のことである。わたしがわたしであることを知っているのが魂であり、わたしのいのちである。愚かな金持ちは、所有を確保して、自分自身を失ってしまった。これが原罪の働きである。そのようになってしまうことを神はご存知で、堕罪の後もアダムに労苦するようにと戒めた。そのように生きてこそ、あなたはあなた自身を生きることができるのだと戒めた。我々はこの神の愛を忘れてはならない。
神は愛する者に、労苦を与え給う。与えられた労苦を神の恵みとして生きる者は、誠実に、努力して、為すべきことを為す。与えられたものを使って、生きる。これが、イエスが今日我々に求めておられることである。貪欲を避ける道は、労苦を神の恵みとして喜ぶことにある。イエスが十字架を引き受け給うたときも、こう祈っておられた。「わたしの意志ではなく、あなたの意志が生じますように」と。神の意志が生じることを喜び、我々は与えられたいのち、魂を使って生きる。労苦して生きる。この生き方を我々の生き方としてくださるのは、キリストである。我々罪人のうちにキリストが形作られるとき、我々は罪深くとも、うちに生きてくださるお方の力によって、労苦して生きる者とされる。そのために、キリストは聖餐を設定してくださった。
「これはわたしの体である」、「これはわたしの血における新しい契約である」とおっしゃる言葉と共にパンと葡萄酒を与えてくださるキリストは、ご自身のすべてを我々に与えて、我々のうちに生きてくださる。貪欲に陥ることなく、神に与えられたいのちを使って、他者のために、他者と共に生きる道を歩む者としてくださる。あなたを愛し、創造してくださった神が恵み給う労苦を引き受け、キリストに従って生きて行こう。あなたは神の所有。神に愛され、生かされている者である。
祈ります。

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