「統一なき統一」

2019年8月18日(聖霊降臨後第10主日)
ルカによる福音書12章49節~53節

「わたしは来た、火を、地の上に投ずるために」とイエスは言い、「何をわたしは意志するだろうか、もし、火が点けられていたならば」と言う。火を投げれば、火が点くというわけではない。火が点くためには、火を点きやすくする触媒が必要である。イエスが「あなたがたは地の塩である」とおっしゃった言葉にも、この触媒となれという意味があった。火を点けられた者は、他者に火を点ける触媒として「地の塩」となる使命が与えられる。ところが、火が点いていない現実を前にして、イエスは改めてご自分の使命を「火を投げる」ことだとおっしゃっている。さらに、それは「分裂を生み出すことだ」ともおっしゃっている。この言葉は、ディアメリゾーというギリシア語で、メリゾー「分ける」という言葉にディア「通って」という接頭辞が付いた言葉である。強意の接頭辞でもあるが、「分け続ける」ことを意味する。しかし、これが受動態なので、「分け続けられる」ことを意味している。「分けられる」ということを分裂と訳している。これは、人間が分裂するというよりも、神が「分ける」ことを受け入れることを意味している。火が点くためには、火を受け入れることが必要なように、神が分けることを受け入れ、分けられることを生きることが、イエスがおっしゃる分裂と訳された言葉の意味である。
「分け続けられる」ことが「火が点く」ことである。その触媒は信仰である。信仰を起こされたとき、人は神の事柄を受け入れるようにされる。これが「義」と呼ばれる状態である。神との正しい関係を「義」と言うが、神との正しい関係とは、神が与え給うものを素直に受け入れる状態である。神が火を投げれば、火を受け入れ、火を点けられる。イエスが、分裂を投げれば、分裂を受け入れ、分けられる。これが継続的に生じることが信仰の状態だと言える。信仰があれば、常に神の意志を受け入れ、従うからである。
イエスは、この火が点いていたなら、来なくとも良かったのである。点いていないがゆえに、神はイエスを送り給うた。この火が点くために、イエスは沈めを沈められる。「受けねばならない洗礼」とイエスが言うとおり、イエスも沈められることを受け入れる。神が沈めることを受け入れて、沈められる。これが洗礼である。自分で沈むのではない。神が沈めることを受け入れて、沈められる。我々の洗礼は、神の沈めを沈められることなのである。
イエスは、神の沈めをご自身の十字架であることを認識しておられる。イエスも、神の沈めを受け入れるために、苦しむとおっしゃっている。その言葉は、「押しつけられ、責め立てられる」ことを意味している。イエスも自分の意志と神の意志との狭間で、神の意志に責め立てられて苦しむとおっしゃっているのである。そこにおいて、イエスご自身も引き裂かれるような分裂を経験なさる。しかし、最終的には神の意志がなることを選択する。神の意志がすべてを満たす。こうして、すべては統一の中に入ることになるのである。
分裂するということは、統一されていない状態である。これは人間が統一しようとして、統一できないことを意味している。イエスが投げ込む火によって、分裂である不統一が生じる。しかし、その火が投ぜられることが、一つの統一を生み出すと言える。イエスが投ずる火は、不統一の統一、統一なき統一を生み出す。分裂とは、統一なき統一。人間による統一はなくなり、神による統一が生じる。
ここで言及されている家族の分裂は、互いに依存し合っている家族が分裂して、個が成立することである。支配される方も、支配する方も、互いに依存しているものである。これが解消されるとき、真実に神の許での家族が生じるであろう。そのために、イエスはまず個の成立を願っておられる。個がないままに、家族や仲間を形成するならば、それらが失われたとき、その人は自分が分からなくなってしまう。しっかりと個を持った人間同士が助け合うことと、個を持たない者同士が助け合うこととはその結果が違ってくる。個を持たないならば、依存関係に陥る。個を持っていれば、互いを認め合うことができる。依存関係は、仲が悪くなるに連れて、裁き合いや排除が生じてしまう。しかも、自らが依存していたとは思わない。自らがこれだけやってあげたのにと思うのである。個を持っていれば、与えたものは与えただけと手放すことができる。個がない場合、依存し合っているにも関わらず、自分だけが損をしていると思い、愛の押し売りをする。こうして、結果的に分裂する。
ここでイエスが言う分裂、分け続けられることは、裁き合いや排除の論理を生み出さない。同調しないが、他者の考えは認め、自分は自分として生きる。その状態が家族から生じるようにとイエスは願っておられる。家族は身近な隣人、最も近くにいる他者なのである。この他者を他者として受け入れ、認め、自分は自分として生きる。これを可能とされるのは、イエスが投ずる火を受け入れる人である。イエスと同じように、神に責め立てられながら苦しみ受け入れる人である。見せかけの同意ではなく、同意せずとも認めることである。その人がたとえ同じ考え方にならないとしても、神はその人を愛し、生かし、守っておられると信じる人である。この信仰があるとき、我々は神が投げ給う火、分裂を受け入れ、共に生きる者とされるであろう。
いわゆる共に生きることとは全く反対の言葉を語っておられると思えるイエスの言葉である。それは、人間が統一せず、神が統一し給うことを信頼して生きることなのである。そのとき、真実に共に生きるということが生じるであろう。そのために、イエスは十字架を引き受けてくださった。人間的な統一が失われ、神が統一し給う統一が現れるために、イエスは十字架を引き受けてくださった。それゆえに、我々キリスト者はキリストの十字架に従って、分け続けられることを生きる。我々が誰かを排除するためではなく、神がこのわたしがわたしであることを守り給うことを受け入れるために、分け続けられる。こうして、我々は個として生きる。個として、共に生きる。この世界が現出するために、イエスはこの世に来てくださった。神に遣わされて、来てくださった。神に担わされて、十字架を負ってくださった。このお方の十字架の許で、我々はイエスに従う洗礼、沈めを沈められたのである。
二人と三人の対立は、親と子の世代の対立。対立が生み出すのは、世代間では対立であり、世代内では協力であろうか。それでは、世代と世代が対立するだけであり、個が成立するとは言えないのではないか。ところが、ここでは世代間の対立であるよりも、父と息子、母と娘、姑と嫁という個の対立が語られている。これらは世代間の対立に見えて、個と個の対立である。対立すると訳されているが、争いや排除が語られているとは言えない。なぜなら、ここでもディアメリゾーが使われているからである。これは神が分け続けることである。しかも、父が息子に対して分けられ、息子が父に対して分けられると言われている。父も息子も、互いに神によって分けられることを受け入れるということである。対立して争うことではなく、分け続けられることを受け入れることが語られている。我々の家族が、神によって分け続けられるとき、我々は神による統一の中に入れられる。統一なき統一の中に入れられる。統一などなく、それぞれであるかのように見えて、実は全体が神の統一を生きている。この統一なき神の統一を受け入れ生きる家族の個人は、個人としてこの世で生きる。従って、個であることを失うことなく、敵を敵として愛し、他者を他者として愛する。良き隣人として生きる。この愛は、イエスが担い、火を投じ給うた十字架から溢れてくる。この愛を受け入れるようにされた者は、信仰という触媒を与えられて、受け入れ生きる。個であるわたし、個である他者を受け入れ生きる。究極的他者である神に向かって生きる。
イエスが投じ給う火は、イエスが設定し給うた聖餐を通して、継続的に我々のうちに火を点ける。この火が消えてしまわないようにと与えられるイエスの体と血に与って生きて行こう。あなたは統一なき統一を生きるべく召されたのだから。祈ります。

Comments are closed.